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インサイド・フロイント

MIDIピアニスト石田誠司の日誌より〔石田誠司/2005〕

2005年11月27日

フロイントの進化はとどまるところを知らない。モーツァルトやベートーヴェン、ハイドンなどですぐれた演奏を行ってきたフロイントだが、今回はいよいよロマン派交響曲をとりあげた。

だが、それが何とシューマン、それも2番の交響曲である。プロ奏者たちでもあまりやりたがらない、問題の多い作品ということになっているのに、よりによって演奏会では初めて(?)とりあげるロマン派曲がこの曲とは。小西収はいったい何を考えたのだろう。

もっとも、ある意味ではこれぐらいのことを不思議がることもないのかも知れない。週いちどの活動日や合宿ではブルックナーのあれこれをやったりすることもあるぐらいなので、シューマンだから2番だからと、奏者たちとすれば、とくに構えることもないのだろう。

だが、もしかしたら、ただでさえチャイコフスキーだのドボルジャークだのに比べればあまりやられない(でしょ? それとも今はそうでもないの?)シューマン、それも「春」「ライン」「ニ短調」に比べてもいっそうマイナー(でしょ?)な「2番」をとりあげたのには、少々は意図があったのかも知れない。つまり、聴き手にとって手垢(耳垢?)がついていないというか、予備知識(先入観)の少ない曲を選んだのではないか。そういえば、若いピアニストが、たとえばベートーヴェンのソナタをやるのに「悲愴」だの「テンペスト」だのを避けて作品10のソナタなんかをとりあげようとしていたら、それはそういう意図だから興行師は余計な口出しをせずに好きにさせてやれ、というようなことをむかし吉田秀和さんが書いていた。作品10の3曲だって「悲愴」などに比べて劣るわけではなく、ベートーヴェンの個性と野心まんまんの意欲は作品10の曲たちにもみなぎっているのだから、これは全くもっともだと思う。今回の選曲の背景にも、それに類する気持ちは多少あったのかも知れない。

いや、僕自身が、この曲は若いころ何度もきいたのに(そしてシューマンを偏愛しているのに)どうもよくわからなくて、以後ほとんどまったく聴かなくなってしまっていたもので、だからこそ、きょうきくのを楽しみしていたのである。そして、その期待は裏切られることがなかった。

フロイントの団友・梶岡さんのピアノも今日はじめてその真価をみせていただいて、もはやベートーヴェンは「お家芸」ともいえる小西=フロイントとのすばらしいアンサンブルを楽しませてもらった。

そう、コンチェルトはアンサンブルなのだ。そのことをきょうぐらい実感させてもらったことはなかった。よく「独奏者とオーケストラの丁丁発止の競演が云々」と言われたりしたものだが、そういう要素もあるにせよ、その根本にアンサンブル精神とアンサンブル能力がなければコンチェルトの演奏などできはしない(これは中村紘子さんも著書で述べていた)。そして、ピアニスト(そしてヴァイオリニストの一部)は往々にしてアンサンブルが大の苦手なのである。梶岡さんは、もちろん美しい弱音、りっぱな響き、あぶなげのないテクニックを持つすぐれたピアニストだけれど、何よりも僕が感心したのは、その「アンサンブル精神、アンサンブル能力」だった。

梶岡さんは、ソリスト専門のピアニストたちに比べると、あまり主観的な崩した演奏をしない。この点では、むしろ指揮者小西収のほうがときどきよほど妙なこと(ほめ言葉です)をやっている。その意味では、しごくあっさりした演奏なのだが、そのかわり本当に音楽をよくきいていて、きちんと合わせているのである。「何かやりそうな気配」というか、指揮者が流れに手を加えようとしている気配をほんのわずかでもみせると、梶岡さんは、すかさずさっと顔を上げて棒を見る。その呼吸は本当ににすばらしかった。そもそも、あんなに指揮者を見ながら弾くコンチェルト独奏者は、あんまりいないのじゃないかしらん。

話の順序がもうむちゃくちゃだが、冒頭カデンツァにつづいいて管弦楽による提示が始まったとたんに、なんという堂々たる響き、そして何という弾力感のある生気にみちたリズム感だろう、またたく間に僕は魅せられた。いくら何でも早すぎるだろ、と思いながら目頭が熱くなるのを押さえられない。たとえば小西収は第1テーマの確保の終わりのカデンツではっきりと「重く」させる。MIDIピアニスト流に言えば、だいたい120ぐらいだったテンポが、確保の最終小節前半は115ぐらい、後半はたぶん110以下までテンポが遅くなっていたと思う。こういうところで、弾き手も聴き手も、みんなが「ぐいっ」と音楽に集中させられてしまうのである。いわば小西マジック。

誉めてばかりでも面白くないから違うことも書いておく。第1テーマ部はすばらしかったが、第2テーマはもっと弱音をきかせてほしかった。このへんがフロイントのやる音楽がヨリ完全なものになるための、次の課題のひとつになるかも知れない。それというのも、後で何度かこの第2テーマを弾く梶岡さんが実に絶妙なのだ。悲しいほど美しい音で、詩情があって。僕は、この曲をはじめて聴いた小6か中学1年のときから、この曲ではこの第1楽章第2テーマを偏愛している人間なので、これにはシビれた。

展開部冒頭、木管が短調でメロディーを歌い継いでいく。フロイントはこういうところが惚れ惚れするほどうまい。奏者たちが完璧に「ひとつの音楽」を感じながら演奏しているからであろう。クライマックスのファンファーレのあと、ピアノが音階をがんがん弾いてオーケストラが小さく合いの手を入れる音楽、ここもよくあるような絢爛豪華な凄みを放射する音楽というよりは、むしろ意外なほどエレガントで、緻密なアンサンブルによる肌ざわりのいい上質な音楽になっていた。何でもないようだが、けっして音楽が乱雑にならず、これだけきっちりと音楽音楽した演奏で聴かせてもらうと本当に楽しい。

そして絶妙の静けさの中で、すっぱだかのビオラがテーマの断片を弾いて再現が予告されるのだが、ほんとうにほんとうに僕なんかが弾いてなくて良かったよ、Uさん。最初だけちょっとばらけたような気がしたけど、だんだん合ってきて、最後は実にビオラらしい、いい音がしてましたよ〜。そしてカデンツァのあと管弦楽全奏による第1テーマ再現、これが提示のときより2つぐらいシフトアップした力強さになっているのは、こうやるところとは言え、きき手の期待を裏切らない。

長くなった。あとは手短に。ノーブルに歌う変奏曲の第2楽章も美しく演奏されていたが、第3楽章への推移のところの「神秘さ」は、もうひと息かなぁ。ほんの少しだけ、吹き伸ばしの管楽器群の音程か音色か・・・が、何か違うのかも知れない。でもまぁ、雰囲気だけのことだから。

そして第3楽章の快演、ほんとうにいい響きのするオーケストラになってきた。強奏も弱音も良い、リズム感もよい。再現の力強さ申し分なし。

鳴り止まない拍手に応えて梶岡さんが2曲アンコール演奏をされた。あやや、ぜんぜん知らない曲だなぁと思ったら、そりゃ知らねーよという選曲だったようだ。2曲とも華麗なピアニズム、歌心もあって楽しかった。

さて休憩、と振りかえると、立ち見の人がずらり。開演前に、だれかに「超満員ですね、こりゃ立ち見が出ますよ」と言ったのだが、その通りになった。

シューマンについては、もう時間がないので、詳しくはまた後日。とり急ぎ、なぜ僕はかつてこの曲がいいと思わなかったのかが不思議でしょうがなかった、とだけ言っておきます。

2005年11月29日

演奏会から2日経って、すでにたくさんの感想が飛び交っている。お客さんが書いたアンケートもいくらか紹介されているし、「オーナー」大石さんの克明な分析も回ってきた。いまさら僕などがシューマンの演奏について語ることはそう多く残っていそうにない。だが、いくつか思ったことを書いておく。

芸術というのは不思議なもので、完成度高く整っているものほど優れているとも限らない。明かな欠点があっても、その欠点もまた作品という有機体の中で抜き差しならぬ位置を占めながら、全体としてかけがえのない傑作になっていたりすることは珍しくもない。

シューマンの交響曲はその典型かも知れない。よく言われる管弦楽法のまずさというのは多分本当なのだろう。「そないにどこもかしこも楽器を重ねんでも」とは僕もよく思う。それに、弦楽器に無闇と細かい刻みを弾かせるので「ゴシゴシやらされてばっかりやなぁ」と思うこともある。まぁそれやこれやの結果、全体に色彩の変化がとぼしくてモノトーンな音楽になってしまっていると言われ、それが指揮者や管弦楽団の人たちに嫌われる。だから、マーラーをはじめ、スコアに手を入れた指揮者も少なくない。「なんでコイツこんなに下手なんだ。管弦楽法をもっと勉強してくれてたらもっといい曲になったろうに」

だが本当にそうか?と僕は小西=フロイントの演奏をききながら思っていた。もともとシューマンはピアノを愛した人で、最初に書いた「春」なんか、ピアノをがんがん弾いてる響きをそのままオーケストラに移してきたような趣がある。次に書いたニ短調にもそういう気配がまだかなり濃厚だ。以後、この「2番」、そして「ライン」となるにつれ、だんだん管弦楽曲らしい書法も増えてきているような気が(何となく)するけれど、それでもこのサウンドはやはり、シューマンの発想を音にするときに、どうしてもこうでなければならかった「モノトーンさ」だったのではないか、という気がしきりとしたのである。もともとがピアノの人なんだからさ。やっぱりもうシューマンはこれでいいんだろう。こんなにすばらしい曲なんだから。

それは「贔屓の引き倒し」だと言われれば、そうでもあるのかも知れない。だが実際、小西=フロイントのシューマンには、管弦楽団が渾然一体となってひとつの響きをつくりつつ、あたかも名人ピアニストが振幅大きなアゴーギクを駆使してイマジネーション豊かな演奏を行っているかのようなおもむきがある。

この曲の演奏について詳細な分析をするのは、残念ながら僕の任ではないが、少し具体的なことにも触れるとすれば、たとえば第1楽章序奏、例の「固定観念」とでも呼びたいようなトランペットの動機をききながら弦楽器群が思索的に歌い、やがて気持ちを吐露するかのように木管楽器群に歌いつがれていくと、僕などにはこの曲にとって必要なだけの「色彩感」は十分にあるとしか思えないのだ。シューマンはちゃんと心の動きを色にしている。ただそれが、チャイコフスキーみたいな華麗な色ではないだけのことだ。そして、シューマンが語ろうとしたことはチャイコフスキーと同じではないのだから、色使いもちがってきて当然だろう。

急激に緊張してガンと和音が鳴り、第一テーマが予告される。このままかっこいい音楽が続いていくのかと思ったら、音楽はすぐに立ち止まって、何やらぶつぶつ言ったり突如叫び声を上げたり。しかし、ベートーヴェンの8番交響曲もそうであるように、こういうところがかえって味なんだねぇ・・・若いころの僕にはよくわかんなかったけれど。そしていよいよ独特なリズム感の颯爽たる第一テーマ、小西=フロイントでは実にいいテンポに乗った、本当に胸とどろく登場である。この生気あふれる勢いを出すには弦楽器は頑張って刻まないと、刻みながらいっしょに歌わないといけない。小西=フロイントは一体になってみごとに躍動感を表現する。展開部の「闘争」も遺憾なく厳しい表現で描かれていたが、その前に悲しげに歌うエピソードもくっきりと印象的である。小西=フロイントには「こう書いてあるから一応弾いてますけど」みたいなところが全くない、必ずきっちりと音楽にしてくる。当たり前のことなんだけど。

せかせかしない余裕のあるテンポのスケルツォ。そうかそうか、こういうエレガントな音楽なのだ。終わってみると、トリオの弦楽器群が心に染みる美しさ、ことに2度目のときのきよらかなせつせつたる歌がひときわ鮮明に耳に残っている。

哀切な第3楽章、短6度上昇・減4度下降という大きな動きで悲しみをしぼり出すが、これが長6度で出てくると、ピアノコンチェルト第2楽章の2番目のテーマを連想して「あれに似てんじゃん」なんて思ったりしていたものだが、小西=フロイントの演奏ではそんなことを微塵も思う間がなかった。音楽のたかまりとともにいっしょに胸を熱くし、木管がスタカートで慰めを語ればいっしょにほっと息をつき、フーガふうエピソードではいっしょに息を呑み、ねっとりとテーマを弦がオーボエが嘆けばいっしょに嘆いているばかりだった。

そして目の覚めるような力強さで叩きつけられる第4楽章冒頭、これが音楽の世界でもまれにみるショッキングな瞬間に感じられた。なんせ「変なふし」である。シューマンはここへ来て「自分を取り戻した」とのことだが、たしかに力強い第1テーマはピアノでがんがん弾いてみたいかも知れない。前楽章の嘆きの幻影、そしてそれを振り払うかのような決然とした音楽。管楽器が三連符でいろどるのも、なんか邪魔っけみたいに言われることもあるけれど、音楽に複雑な味わいを添えているのだねぇ。初めて思った。

わめいてばかりいるのではなく、前楽章を思い出しながら嘆き歌ったりしょんぼりしたり、感情の振幅はあいかわらず大きく、またうっかりすると唐突に響いたりもする曲だけれど、小西=フロイントの演奏では各部がほんとうにしっかり彫琢されているうえ、何というか、奏者たちがみんな、いい意味で曲が「手の内に入っている」んだろうなぁ、ちゃんと音楽がひとつのストーリーとして息もつかせぬ迫真のリアリティーで進んでいくのである。そして、最初の話に戻せば、これだけ音楽の表情が多彩で激しく変化する曲では、ある程度の「モノトーン」さがどうしても必要だったのじゃないか。というか、作曲という行為においては、それはもう一体のできごとだから言ってもしょうがないのだけれど。

ここまででも十分に壮麗な響きがしていたのに、この第4楽章では奥に行くにつれて、何度も「もっとすごい音」が出てきて、「うわ、こんなすげー音がするのか」と思うような圧倒的なサウンドをきかせてもらった。むかし、初めてアメリカのメジャーオーケストラを聞いたときの感銘がよみがえった。

何しろ、僕はシューマンの第2交響曲をこれだけおもしろく聴かせてもらったのは初めてである。むかしの僕がぼんくらだったのかも知れないけれど、やはりそれだけのものがここに生成しているのは確かだと思う。そう、芸術というのは完成度と比例しない価値をたくさん持っている。フロイントのシューマンよりも「じょうずで、キズがない」シューマン演奏はたくさんあるのかも知れないが、フロイントのシューマンよりも感銘深いシューマンは、そんなにたくさんあるまい、と思う。

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