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インサイド・フロイント

MIDIピアニスト石田誠司の日誌より〔石田誠司/2004〕

2004年9月19日

アンサンブルフロイント演奏会:豊中

アンサンブルフロイントと小西収の演奏によるベートーヴェンは聴きのがすともったいないので、今回はこの日にやる予定だった仕事がダメになって、実は嬉しかったかも知れない。

小西収がスゴイ指揮者だからこういうおもしろい演奏になるのかというと、そうばかりではなくて、やっぱり音楽好きが毎週集まっては、「練習」するのではなくて、あれこれの交響曲を弾いて「遊んでいる」(言葉の最高の意味で)という、小西=フロイントという集団全体がスゴイのだろう。そんなことやってる人たちは他にあんまりいないだろうからねぇ。この団体をセットしたO君らは実に面白いモノ(集団というか場というか)を創造した。それも、別に誰のためにしたのでもない、自分たちが遊びたいからにすぎないときている。まったく愉快だ。

僕はあと何年生きられるか知らないが、生きている限りはこの「場」にまた来たいと思わずにいられなかった。きいたり、ときには弾かせてもらったり。年月の経過とともにフロイントの成長の歴史をいっしょに体験するのは、得がたい経験になるはずだ。

というのも、ひとつは、小西=フロイントはますます良くなっているからである。前回の「第八」もすばらしかったが、今回の「第一」も「エロイカ」も、団の進境ぶりを遺憾なく感じさせてくれた。そして、それと同時に、僕は「これはまだ先があるな」とも思ったのである。小西=フロイントが中に持っている音楽は、まだまだ(これでも!)完全には音になっていない。

その意味で、アンコールでもう1度演奏された「第一交響曲・第一楽章」が、プログラムの最初に演奏されたときにあった固さもとれ、いっそう流麗で音楽的にこなれた演奏になっていたのは象徴的なことだ。そう、コレなんだな。フロイントは、やるたびに良くなるのである。

というのも、一般のアマチュア管弦楽団の実情を多少とも知っている人にはたぶんにわかに信じられないことだと思うが、小西=フロイントは、たぶんこの曲やエロイカを今回舞台にかけるにあたって、半年か1年ほどの間に10回かそこら通して弾いて遊んできただけだったはずなのである。11回目を僕らはきいたのだ。そして12回目がアンコールで演奏された。11回目にはまだ奏者たちにとってしっくり来ていないところがあってかすかにぎくしゃくしていたのが、休憩をはさみ、ほかの曲を弾いて、ほんの少しだけ休憩して、それからもう1度弾いてみたら、こんなに良くなっているのだ。

そうそう、それにフロイントの場合はみんながみんな毎週参加するわけではないので、今回この曲を全パートが揃って演奏する機会は、「今日が初めて」だったかも知れない。ふだんの活動日には欠けているパートも今日ばかりは全部揃っている。ふだんは各自の想像力で補っている「欠けたパート」の音も全部が鳴って、自分たちの音楽が完全な響きで進行している。それをゲネプロで1回、本番で1回とやった後だから、3回目の演奏があんなに良くなるのも当然なのかも知れない。

なんだか感想というより考察になってしまったが、第一交響曲の第一楽章で、冒頭第一テーマの白ダマ(二分音符などの長い音符)をあんなに長く一杯一杯に引っ張る演奏は聴いたことがない。みんなもっと抜き気味の音で、いわば「ドー、、ソーシ/ドー、、ソーシ/ドドソシドドソシ・・・」という感じでやる。しかし、たしかにベートーヴェンはここで付点2分音符を書いているのであって、むしろ他の指揮者がやってることのほうがおかしいのだ。しかも小西=フロイントは、これを押し気味に(つまりだんだん大きく)弾く。これによって音楽に独特な粘りが生じて、力がたまる。音楽が進むにつれて蓄積されるそのエネルギーが、もうこの曲が「あのベートーヴェン」の作であることを嫌というほど感じさせる。

僕はうんと前に1度だけフロイントでこの楽章を弾かせてもらったことがあるが、第一テーマのあとの経過部、ヴァイオリンと木管が歌いかわす下で中低弦が8分音符を刻む(ちなみに僕はビオラを弾く)とき、18世紀的な「タタタタ」という感じではなくて、「ダッダッダッダッ」とでもいった感じの実にエネルギッシュな力強い響きがするので驚いた。小西=フロイントはこの曲をそういう力強さをもつ音楽と感じている。若書きの小品などではない、覇気に満ちた青年ベートーヴェンの野心みなぎる音楽。だが、やわらかな木管楽器のしらべも美しい。

あまり長くは大声を出さないが緊張感・緊迫感のあふれる展開部のあと、貯めていた力を爆発させるように再現。そうか、この楽章の再現部てのは、第九交響曲第一楽章とか作品135弦楽四重奏の第一楽章でやったような、クライマックスとしての再現だったんだな、と改めて気付く。(ほぼ同じことを「エロイカ」の再現でも感じた。)

あっさりしたテンポの第2楽章。レガートになったときの弦楽器の響きが美しい。内声までつややかに歌いながらきれいに溶け合わないといけないのだが、これはアマチュア管弦楽団には至難のことで、みごとだった。手堅い演奏の管楽器陣もすばらしかった。

第3楽章のスケルツォも好演だったが、何と言ってもトリオ! そうかそうか、ここはこんなにふくよかな響きのする木管アンサンブルだったんだなぁ。モーツァルトの木管重奏曲でしか聴いたことのないような、天国の響きがしていた。小西=フロイントはここでたっぷりとテンポを落とし、しかもリズム感がぼやけるのすらも厭わずにレガートに吹き鳴らす。至福の瞬間である。

第4楽章の序奏は独特だな・・・と思うと、これもやっぱり小西=フロイントのほうが楽譜に忠実なのだ。小西=フロイントは因習にとらわれないから、みんなが何となく長めに弾いている8分音符を理由もなく長くひっぱらない(こういうとこはフリードリヒ・グルダを思い出す)。ただ、ここで音階のテーマが「生成」するドラマを感じさせるには、まだ何か出切ってないものがあるようには感じた。だが、始まってしまえばみんなが音楽に深く入ってくるにつれて音楽に生気が増し、感銘の深い演奏となった。コーダで出てくる「いきなりフォルテ」のとこがもっとうまく出ればなぁと僕はわずかな悔いが残ったが、あれ難しいんだろうなぁ。

いま「みんなが音楽に深く入ってくる」と言ったが、これがたとえば去年の第八交響曲では第一楽章の冒頭でいきなりばっちり入れて、あの名演となったのだろう。

「エロイカ」第一楽章では、むろん冒頭からしばらくが悪かったわけではないが、木管が副主題を吹き交わすあたりの美しさで一段深くなり、絶妙の第2テーマ(小西氏自身がこのテーマのことをパンフレットに書いていたが)で完全にみんなが音楽に入り込んだように思った。むかしの指揮者はここでテンポを落としたぶんを元に戻すのに、弦楽器がスタカートで弾く数小節間をかけ、次のフォルテでやっと元のテンポに戻すように持っていったりしたものだが、小西=フロイントはそういう手間はかけず、爽快にすっぱりとテンポを戻す。こういうことをあまりやると曲がばらばらな印象になりやすいが、そのへんは曲自身の求心力も強いから大丈夫そうだった。

展開部では、例のシンコペーション連打のときにいちいちフレーズごとにピアノからクレシェンドするという独特な演出があった。ここを聴いているときには、正直なところ完全な説得力は感じなかったのだが、あとでクライマックスに至ったときになるほどと納得した。この尋常でないクライマックスの異様な緊張感が、あのやりかたでより際立つということはあるなと。しかし、いつか、あすこが聴いた瞬間に惚れ惚れする音楽になっているのを聴いてみたいものだとも思った。そして、再現。第一テーマ確保あたりからの高揚感がすばらしく、この曲も実は再現に大きな力が置かれているのだということがよくわかる。コーダにかけての雄渾さも申し分ない、例によって中身の濃い演奏だった。

第2楽章での特筆事項のひとつは、やっぱりトリオのテンポだろう。「通常の倍」と言っては誇張だろうが、それに近いぐらい。だが、これは強い説得力を持っていた。不自然感もほとんどなく、フォルティシモの爽快さには胸がすく思い。そして第三部の力のこもった演奏は胸を打つ。あとコーダで「音ひとつひとつが泣いている」ような感じがしてくるようになればより完成した演奏となるのだろう。

第3楽章、冒頭から音の生気がすばらしい。合わせるのがやっと、みたいな演奏になりやすいと思うのに、弾力感のある刻み音が実に音楽的で、胸の高鳴りをみごとに表現していた。ところどころ独特なパウゼ(というか、休符をフェルマータする)を入れながらの演奏で、最初は驚くが、おもしろい。そして、何と言ってもトリオに移った瞬間!

これはむしろ、ベートーヴェンの天才を誉めているだけなのかも知れないが、なにしろ力を振り絞って急ブレーキをかけながら、渾身の下降分散和音でスケルツォが終わり、そこへホルン3本が堂々たる響きで鳴り渡ったとき、体が震えるほどの感銘に襲われたのである。何というかっこよさ! フロイントではホルンやトランペットの人たちはわりと離れて座っていて、3人のホルン奏者は「堂々たる布陣」である。トリオに入った瞬間の圧倒的存在感、「で、でたぁ!」という感じを、僕は生涯忘れることはあるまい。

そしてフィナーレ。もうこんなに長くなってしまったが、しかしエロイカそのものも本当に長い曲で、しかも中身が濃いから、最低限いいたいことを書いているだけでこうなってしまう。小西=フロイントのエロイカで最も異彩をはなち、同時に最もすぐれているのがこの楽章の演奏だと僕は思う。

冒頭ピチカートのテーマ、のっそりとユーモラスに。そう、これはまさにこういう音楽だろう、こうでしかあり得ない、という手応え。変奏に入る。木管楽器群美しい。指揮者のタクトはもう少し鋭角的なダイナミクスのある歌い方を弦楽器に求めていたようだが、そのへんはまたこれからのお楽しみだろう。

特筆したいのは、ポコ・アンダンテである。いいですか、ここはたかだかポコ・アンダンテ(ややゆっくりと)なのであって、みんなテンポを落としすぎなのじゃないかと僕はかねがね思っていたのだが、小西=フロイントもテンポはかなり落とす。しかし、これがなんと「緊張が全く弛緩しない」のである。みんなここで音楽を緩めてしまうのに、小西=フロイントはここを緊張感みなぎる音楽として演奏する。みごとだ。だから、ホルンがテーマを咆哮したときに、まったく間抜けな感じがしない。小西=フロイントだけが正しく演奏しているのではないのか。

これがあるから、コーダでテンポを上げる必要がない。みんないったん緊張を緩めているから、ここで目を覚ます必要があるのだが、小西=フロイントのエロイカでは、蓄積したエネルギーをそのまま自然に開放する音楽になる。悠揚迫らぬテンポに乗った堂々たる歩み。これでこそこの大交響曲を締めくくるにふさわしい、と思われてくるではないか。

僕は「エロイカ」はベートーヴェンの交響曲でいちばん好きだが、しかし正直なところ、第4楽章だけは納得が行っていなかった。学者たちによると、ベートーヴェンはこの交響曲を書くとき、第4楽章を最初に書いてしまったらしい。そのあと書いた1楽章や2楽章がとてつもなく立派なものになってしまったので、ちょっと曲全体の設計がくるっているのだと思う。しかし、小西=フロイントの演奏は、若いベートーヴェンが書いた、ちょっと力の足りないフィナーレ楽章を、こうやって救っているのである。

すぐれた演奏家というのは、そういうことをやってしまうものなのだ。

PS

ひとつ書き忘れた。指揮者の棒がときにかなり強引なテンポの変化を示し、あっと思うことがあるのだが、コンサートマスターが決然と入ることでみんながついて行ってアンサンブルが維持されているのが見ていてよくわかる。この団にとって、彼の存在もやっぱり大きいですね。

2004年9月23日

フロイントの演奏会について書いた文章で、僕は小西=フロイントの擁護論をブッているのだな。「これって変じゃない? こんなのアリ?」と思う人がたくさんいるだろうということを、僕は知っているからだろう。

僕はフロイントの演奏は全体としては面白いすぐれた演奏だと思うし、また演奏において指揮者小西収が考えていることもほぼ理解できる気がする。そして何よりも、そうしたすぐれた演奏を、いわば「必然的に生み出す」仕組みになっている、この団のありかたを高く評価する。だから、あり得べき非難に対して擁護する必要を感じる。それで僕は、「事実と自分の評価をもって、小西収=フロイントを擁護」したい気持ちになるのだろうと思う。

音楽演奏を自分たちの楽しみのためのものととらえ、過去の作品をネタに遊ぶために集まる、という、この団の考え方あり方を僕は非常に好ましく愉快に感じるのだ。そして、フロイントの演奏が聞いている人間にとってもおもしろいのは、その演奏が、演奏している人たちの「美しく面白い演奏をして自分が楽しみたい」という気持ちに発する自発性とアンサンブル精神に支えられているからだと僕は思う。そして、小西収はその中心にいて、奏者たちに、その曲の演奏についての示唆に富む(魅力的な)ひとつの方向を示しながら、アンサンブルの導き役をつとめ、奏者たちが質の高い演奏をなしとげるのを助けているのである。

小西収がいろいろと普通のひとと違うやりかたをするという点について言えば、僕はまず前提として音楽演奏についてひとつの極論に達しているのである。すなわち、僕は「音楽演奏というのは何をやったってかまわない」と言い切る。テンポはおろか、勝手に音を変えたってかまわない。途中をはしょろうが別なメロディーを挿入しようが、何だって好きにやればいい。

これについてはちょっとしたエッセーに書いて笛のサイトにも掲げてあるのだが、ここでも要点を述べておく。

まず音楽というのは演奏するという行為にその根本的成立要件がある。作曲者・演奏者・鑑賞者の3者がいて音楽が成立するかのごとき「音楽観」があるが、これは間違い(ないし19世紀的偏見)だと僕は考える。なぜなら、ひとは即興で作曲し、それを歌うなり楽器で弾くなりして、自分ひとりで楽しむこともできるからである。つまり作曲者や鑑賞者は特に必要ではないのだ。しかし、言うまでもないことだが、演奏する人がいなければ音楽が音楽として鳴り響かないのであって、演奏のない音楽はあり得ない。

そこでたとえば、ジャムセッションをやろうというので集まったジャズミュージシャンたちは、ろくな打ち合わせもないままに、心のおもむくままに音を奏で、そして自分や仲間が出した音に触発され導かれつつ、あるいはアンサンブルし、あるいは張り合い、あるいはソロを取って、音楽演奏を作り上げるのだ。

こういう伝統は、黒人音楽から生まれたというジャズに固有のものではなく、西洋音楽にも18世紀までは生きていたのである。演奏して楽しもうと思っている人々は、数人で何か音楽でもやろうやとなったとき、たとえば流行っている歌などを題材にしてどう面白く楽しく演奏するか、というような楽しみかたをしていたはずである。あるいはメロ譜だけを元に、あるいはきき覚えたメロディーをたどりながら、即興でアンサンブルするようなことはごく当たり前の行為だったろう。

テレマンが残した家庭用音楽と、その楽譜を用いての「古楽」最前線の人たちの演奏をきいていると、そのあたりの事情が彷彿とさせられる。ここではメロ譜と低音しかない楽譜をもとに、6〜7人で演奏するなんてのはザラなのだ。

バロック音楽における「通奏低音」のありかた(左手だけが書いてあって右手はどう弾こうが勝手である)にせよ、独奏楽器の即興的修飾の伝統にせよ、こうした、「演奏者自身が音楽演奏を楽しむこと」を価値の中心に据えた(その意味で極めて健全な)音楽観を背景に持っていたからこそ成立し発達したものだったはずだ。それは断言してよかろう。

だが、19世紀に入って、そうした音楽観は急速に変質し、そしてすたれた。それが何故だったのかを考えるのも興味深いことだが、別の機会にゆずろう。ここでは音楽演奏というものが「楽譜のとおり・演奏上の伝統通り・先生に習ったとおりに音を出す」ようなつまらぬモノになったのは、つい最近の特殊な出来事であるということを確認できれば足りる。

では、音楽演奏が「楽譜のとおり・演奏上の伝統通り・先生に習ったとおりに音を出す」ことではないのだすれば、「音楽を演奏する」とはそもそも何をすることであるか。それを定義することを考えてみよう。ここまでの考察をふまえると、それは「楽しむために、できるだけ工夫しながら音を出すこと」とでも定義するしかあるまい。聞き覚えのあるメロディーを手がかりにすることもあろう。好きなリズミックパターンを土台にすることもあろう。あるいは、誰かが手引きとして書きしるした楽譜を元にしたってかまわない。

さてそこで、ここに19世紀ドイツ人、ルードヴィヒ・ファン・某という人が書いた交響曲の楽譜があるとする。音楽演奏をやって遊ぼうと思っている人たちが、「きょうはこれをネタにしてやってみようよ」と決めた。そこで、何をすることが「許される」か?

などと、これは問うのもばかばかしいことになろう。何をやったってかまわないのだ。ルードヴィヒ・ファン・某は、なるほど大変な天才であったようで、その楽譜は偉大な手引きである。だが、演奏して楽しむ人は、こうやったらもっと面白いんじゃないかと思ったことは何でもやってみればいい。そこには何らの制限もあり得ない。

むろん、他のいろんな人たちが「このネタはこう料理したら美しいのではないか」と思ってやってみたモノ(演奏ですな)については、いろいろに参考にすればよい。いくらでも学ぶことはできる。「演奏の伝統に学ぶ」てやつだな。あるいは演奏上のいろいろな「常識」だって、役立つ局面はいろいろある。僕だってそういうことを口にする。アウフタクトを長めに演奏するのは、やっぱりしっくり来ることが多いし、ふたつ並んだ音符にスラーがついていたら、あとの音符のほうを弱く弾き、しかも短く切りたい「と思うことが多い」。

だが、それだけのことだ。もし「ここではその逆をしたい」と思うところがあれば、やってみればいいのだ。その結果、おもしろい音楽になれば成功だし、いまいちであればあまり成功しなかったのだ。だが、何をやっても「かまわない」のである。

僕はそう思うものだから、まず原則として「楽譜を変えたから」「テンポが指定とちがうから」「楽譜にないパウゼを勝手に入れたから」ダメだ、という立場をとらない。何をやったっていい。面白くなっていれば何でもいいのである。

ここでもう一度ポップス音楽の事情を引き合いに出す。ポップス音楽の世界で、ある曲を「カバー」で演奏する演奏家(つまり歌う歌い手)が、「原曲」を丁寧になぞって演奏した日には、さぞ笑いものとなることだろう。カバー曲を演奏する(歌う)ときには、アレンジも変え、ときには歌詞も一部変えて、いかに自分の個性が最も生きる楽曲に改造し得たかにおいて、カバーするだけの価値があるかどうかが問われるのだ。演劇の世界でも、ある台本をもとに上演を行うとき、時代設定から道具類、台詞のあれこれに対して、演出家(つまり演奏家)が「こうやったほうが面白い」と思うことならどんな改変でもやってしまう。「クラシック音楽」の世界だけが、楽譜という「台本」に必要以上にこだわり、「作曲者の意図」を云々して、その「再現」に価値を見出したりするような偏狭な芸術観に囚われているのである。(ついでに言えば、この点では「古楽好き」の人たちの多くも、本質的に同じである。「バロック時代にどうやってたか」なんて僕に言わせれば「ぜーんぜんどうでもいい」。面白い演奏であれば何でもかまわないのだ。)

そう、音楽演奏では、何をやったっていい。プラハ交響曲の展開部の一部をリピートしたってぜんぜんおっけーである。一部にあった「許せない」などと言う声に耳を貸す必要はない。

ただし、問題はそれが面白い音楽になっているかどうかだ。

たとえばエロイカの第一楽章展開部のシンコペーション連打は、作曲者が楽譜に書いていること(彼は面倒をいとわずアクセントごとにスコアの全段にしつこくスフォルツァンドを書いた)を比較的そのまま受け止めて、ひとつひとつを強い音で踏みしめるように進み、それにより実現される強い緊張が、さらにクライマックスの半音できしむ汚い和音で極点に達していく、という仕組みで演奏されるのが普通であって、僕はそのやりかたに十分な説得力を感じてきた。

それはおそらく、指揮者小西収も同じだと思う。それなのに、あえて小西=フロイントは、「フレーズごとにいちいちピアノからクレシェンドする」という別な演奏のしかたをこころみた。これについて僕は、「センプレ・フォルティシモ」で演奏した場合に得られる歩みの力強さが失われている一方で、それを償うだけの別な魅力が「とりあえずは」感じ取れなかったが、あとで「汚い和音」まで来たときに、「そうか、ここの凄さはより際立つってことはあるな」と思ったのも事実なので、そういう感想を述べた。

こんなふうに、みんなが今までやってきた演奏のやりかたとは違う別なやりかたを採用すると、それによって生まれる新しい良さと、失われる良さとがあるのが常である。それが、「今まではどうもつまんなかった箇所が初めて輝くように演奏できた」のであれば、それはすばらしい発見となるだろうし、逆に「他の人が魅力的にやってるのに、わざわざ違うやりかたにしたためにつまんないものにした」のならば、それは失敗なのだ。だが、すぐれた演奏家がやれば、たいがいは少なくとも「功罪なかば」とは言わないまでも、せめて「いちおう美点もある」ものだ。そして、小西=フロイントがやった各種の「独特な演出」について言えば、その成功の度合いはいろいろだが、少なくとも僕にとっては「何の取り得も見出せない」ようなものは一つもなかったのである。

そして、掲示板でも話題になってしまった「ワインガルトナーとも別な」コーダのやりかたや、第二楽章中間部のテンポ設定、そしてフィナーレの演奏設計などは、感想文で述べたとおり非常に成功していると思うし、第一交響曲の3楽章トリオの美しさともあわせて、小西収の「偉大な発見」と言ってもよかろう。

だが、実のところ、こう言っただけでは正確ではないし、その「言い足りない部分」こそがむしろ肝心なことなのだ。それは何かというと、実際に音を出している奏者たちが、指揮者・小西収のいろいろな「独特な」提案について、「それ面白いかも知れんからやってみよう」と思い、実際やってみて面白いなと思い、それに乗って実に「音楽的に」演奏しているということである。

「音楽的に」という、この便利で曖昧しごくな言葉をこの場合に即して敷衍すれば、「生き生きとした興味と共感に支えられた自発性とアンサンブル精神をもって」というようなことになろう。それが、フロイントの演奏をあんなに楽しい演奏にしているのだ。

したがって、指揮者・小西収の功績が大きいのか、それともコンサートマスターをはじめとする奏者たち自身の功績が大きいのか、などと問うても意味はあるまい。両者の信頼関係と相互作用とが生み出した音楽なのだ。かれらが「音楽演奏」を楽しもうと思って集まり、奏者たち自身が「音楽的に楽しい」と思いながら演奏している、その奏者たちの「音楽的楽しさ」が(偏見や固定観念にあまりとらわれずに聴けば)聴いている者にもそのまま伝わってくる・・・小西=フロイントの演奏とは、そういう演奏なのだ。そして、僕は、「たまたまそばにいて聴かせてもらった者」として、たいへん楽しく感じたので、その演奏を極めて高く評価するのである。

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