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インサイド・フロイント

MIDIピアニスト石田誠司の日誌より〔石田誠司/2002〕

2002年7月13日

フロイントに行って帰ってきた。

会場に着くと、先週の演奏会の録音の試聴会が始まるところだった。いちばん前に座ってじっと耳を傾ける。コンサートマスターNさんの弦が切れる「ばちっ」という音が聴こえたとき、みんなのふふふという笑い声がおこったりしていた。

音楽演奏においていちばん大切なのはフォルムだと信じている僕にとって、フロイントの演奏はいつも新鮮である。プラハの1楽章からほんとうにすごい演奏だった。だが、聴いていて強く感じたのは、フロイントの演奏のこの水準を支えている大きな力のひとつが、管楽器陣がものすごく上手であることなんだ、ということである。

とくに、吹き伸ばし・・・木管・金管ともに古典曲でよく出てくる、白玉のときに、よく音程が合っていて、響きがキレイなのだ。耳がよくて、また、お互いの音をよく聴いているからだろう。これに比べると、弦楽器は、申し訳ないことにビオラで僕が弾いてるだけでも足を引っ張っているし、どこかみたいにオーディションをやって足切りをするならともかく、アマチュアオーケストラで、そんなにどこもかしこも濁らずに行けるわけはない。「熱と力」で行くしかないところがあるのだ・・・。

となると、普通、モーツァルトは辛いということになる。だが、小西さん指揮のアンサンブルフロイント演奏になる「プラハ交響曲」は、特異な魅力を持っていて、聴く者をぐんぐん引きつけずにおかない。ベートーヴェンの「運命」にも匹敵するような・・・いや、また違う質のものだが・・・強烈なエネルギー、熱いたげりと雄たけびがモーツァルトの音楽から聴こえてくるのである。こんなにすさまじく咆哮するモーツァルトを僕は聴いたことがない。(いや、小西さん=フロイントの「40番」の第一楽章展開部でちょっと聴いたかな。)モーツァルトがけっしてロココ趣味のかわいらしい音楽だけを書いていた作曲家ではないということが、イヤというほどわかる。モーツァルトの音楽には、本当にたたみかけてたたみかけて、弾く者・聴く者を信じられないような深い淵にまでひきずり込むような展開が、よくあるのだ。

そう、人はよくベートーヴェンの短調の「迫力」を語るけれど、僕は「モーツァルトの短調」の力のほうがずっとすごいと感じることが多い。ここで僕が「短調」というのは、必ずしもその曲の主調性のことではない。「プラハ」交響曲の第一楽章展開部も、「モーツァルトの短調」の顕著な例のひとつだと僕は思う。

あと、「小西節(ぶし)」で、僕の背筋がもっともゾクっとするのは、盛り上がって力を爆発させるときに、彼がテンポに急ブレーキをかける、その瞬間である。これはフルトヴェングラー流のやりかたとはまったくちがう。他ではあまり聴いた覚えがない・・・

さて試聴会のおかげでいつもより遅くに始まった「練習」では、きょうは笛で第2フルートを吹くつもりだったのだが、たまたまビオラも余分にあったし、最初やる曲に第2フルートがないということもあって、結局、ビオラを弾いた。その、フルートが1本しか使われないベートーヴェンの第四ピアノ協奏曲は、ほとんどの人が初見だったようで、僕もさっぱり弾けず、ちょっと辛かった。だが、次に取り上げられたベートーヴェンの第3交響曲「エロイカ」は、僕は初めてだったが他の人はやったことがあったようで、かなり音楽が形になっていた。みなさんに引っ張ってもらって、僕もスリルを味わいながら弾いて(あるいは弾こうとして)いた。

いや、すごいね。音楽に力が入るほどテンポにはブレーキがかかる、あの感じ。第一楽章展開部もすごかったし、第四楽章の、ゆっくりになった部分の最後のほうとかね・・・。

2002年10月14日

ところで今回、先日の「演奏会」のビデオなども見せてもらって、つくづく思ったのは、「フロイントのやりかたこそが、本当によい演奏を実現するための、唯一ではないにせよ、最短の道のひとつだ」ということである。

フロイントにおいては、指揮者が細かな指図を口頭で行うことはあまりない。だが、彼は演奏の中心にいて、演奏の方向づけにおいて大きな役割を果している。その方向づけを刺激として、奏者たちは自分の音楽性を発揮して音楽演奏を主体的に行っているのである。

これは、良質のプロオーケストラがよい指揮者にめぐり会ったときにも多分起こっていることであろう。考えてみれば、数々の名演をやってきた、名オーケストラと名指揮者のコンビにおいても、彼らの名演が、その曲目だけを長期にわたって練習を続けた結果であったという場合は、ほとんどなかったはずである。

もっとも、彼らの場合は、フロイントとちがって、公開演奏なり録音という「仕事」のためにリハーサルをやるのだし、限られた時間の中で十分な打ちあわせを行う必要があるために、リハーサルの中でそれなりに密度の高い「指示と練習」が行われる。しかし、そのような限られた時間の中では、奏者たちが主体的に音楽演奏を行わなければ、十分な音楽演奏を完成するなど、できるはずがない。たとえば、メロディーと伴奏部のバランスや、あらゆるフレーズにおける音楽的な歌いかた、伴奏音型における音楽的な処理、アクセントその他の音楽的な処理など、指揮者が何も指示しなくても奏者たちがちゃんとしかるべく演奏できるだけの音楽性(と破綻なく演奏できる技術的力量)があってこそ、短時間の打ち合わせで「商品価値のある」演奏が行えるのだ。

そこで、極端な場合には、クナッパーツブシュのように、リハーサルに現れるや「諸君はこの曲をよくご存知だし、私もまたそうです。では、演奏会で会いましょう」と言って帰ってしまった、という話があるぐらいのものだ。相手がヴィーン・フィルハーモニーであり、曲目がベートーヴェンや何かであってみれば、そういうことだってあり得たことだろう。土台、30分も1時間もある曲について、数時間のリハーサルでこと細かに「指示」して奏者に弾き方を教え込むだなんて、不可能だとも言えるのだし、それにもかかわらず何か意味があることをやろうとすれば、ベームがやったように、「もっと上手に弾くための訓練」に当てるということになるだろう。

ベームは(あの世代のヨーロッパの指揮者はみんなそうだったように)地方のオペラの稽古指揮者の出身だ。つまりは根っこが音楽演奏の職人なのだ。彼は、その流儀で、口やかましい親方のように奏者たちをしぼった。彼にかかるとヴィーンフィルだろうがバイロイト祝祭管だろうが、(理想の演奏を行うという観点からすれば)不完全極まる下手くそ管弦楽団だったのだろう。だが、いざ本番となれば、リハーサルのときとはテンポも違えばアゴーギクもダイナミクスの指示も、何から何まで違う・・・このことを「ベームという人の独特なところ」であるかのように語られることもあるが、そんなことはないと思う。稽古場では、そこまでこだわるのかと思うような細かいことを(ただし「より美しく演奏するための当然の稽古」として)訓練する。だが本番の演奏では、奏者たちの自発性に導かれながら、その場で最善の音楽が実現するように奏者たちと協力して演奏を行おうとしたのであろう。

これは指揮者としてきわめてまっとうなあり方ではないか。

そうそう、ここで思い出した。題などは忘れたが、レナード・バーンスタインが、まったくの素人のために「指揮者とは何をする人か」を説明した文章がある。彼は、ブラームス第1交響曲の冒頭のスコアを掲げ、指揮者とは、ただテンポを決めて示したり合奏が乱れないように導くだけが仕事なのではなくて(音楽のことを何も知らない人はそう思っている)、各楽器の音量バランスや細かな表情の具合に至るまで、すべて責任を持って整える役目なのだということをやたらと強調していた。ここまで言ってしまったら奏者なんて何も考えずに指揮者の言うとおりに弾くだけみたいじゃないかと感じられるほどに。

だが、ここで想起すべきは、これが「指揮者なんて音も出さずに前で棒振ってるだけじゃん、アレのどこがそんなに大事なのか(どこがそれほど難しいのか)」と思っている素人に対して「そうじゃないんだ」と言いたいために書かれたという事情とともに、1950年代(多分)のアメリカで書かれたものだったという事情だろう。当時のアメリカのオーケストラは、なるほど狭義の「演奏技術」の達者な奏者たちは育ち始めていたものの、音楽性という点においてはまだまだ未熟な、「単に達者なだけの」奏者が多かったのだと思う。だから実際、バーンスタインは、音量バランスや細かな表情に至るまで「すべて」を楽団員に教える必要があったのだろう。それで、ついああいう書き方になったのではないか。

その証拠と言っては何だが、当時から70年ぐらいまでのアメリカを代表するのは、ジョージ・セルのクリーブランド管弦楽団と、ユージン・オーマンディー指揮のフィラデルフィア管弦楽団であろう。いずれもすみずみまで磨き抜かれた鉄のようなアンサンブルが売り物だった。だが、あれらは「まるでとびきりうまいアマチュア管弦楽団のような」オーケストラだった、と言ったら叱られるであろうか。なるほど、すぐれた指揮者の指示がすみずみまで反映した、水準の高い演奏を行ってはいたが、ともすると、いかにも自発性のとぼしい、冷たい、もっと言えば「死んだ」演奏になりがちだった・・・と思う。当時から指摘されていたことだったけれど。

フロイントのはそういう演奏ではない。そして、ヨーロッパのすぐれた管弦楽団の演奏もまた、そういう演奏ではないのである。かつて、アメリカの交響楽団の人が「どう見てもヨーロッパの名門オーケストラに比べて自分たちの方がうまい(=よく“合っている”)と思うのに、なぜ自分たちの演奏はヨーロッパのオーケストラの演奏ほど評価されないのだろう」と首をかしげていた、という話を吉田秀和が伝えている。この話を僕がしたら、フロイントのKさんやOさんは「そんなこともわからないようでは・・・」とあきれていたが、確かにその通り。どんなにすみずみまで「整って」いたって、奏者が音楽を十分に感じないで「言われたとおりに」弾いている演奏が、奏者の自発性を土台として指揮者と奏者がインスピレーションを喚起しあいながら行う「生きた演奏」に、魅力において及ぶはずがないのである。「そんなこともわからないようでは」そりゃ駄目だわね。でもプロの現場にいたら意外とわからないんだろうと思う。

そう、要するに、フロイントの演奏は、指揮者があらかじめ団員を訓練して覚え込ませておいてその通りにやった(つまりアメリカでセルやオーマンディがやってたような)演奏ではないのである。

それはこんなふうにして出来上がる。

ある日、ある曲の通し演奏をする。奏者たちは、その曲についていろいろと「こう弾きたいな」「こんな演奏にしたいな」というものを、指揮者からの刺激をひとつの手がかりとしながら、それぞれに感じる。一定の期間(数週間とか)がすぎる間に、それぞれが感じたことは、一人一人の中で熟成していく。次の週、さらにまた次の週と、他の曲をあれこれと演奏しているうちにも、それら一回一回の演奏が、奏者たちにいろんな音楽的刺激と、こう言ってよければ、広い意味での「修練」をもたらす。そして、また「ぼつぼつあの曲をまたやりたいな」というころに、指揮者は、くだんの曲を再び取り上げる。今度は、以前に演奏したときよりもいっそう演奏が深化している・・・たぶん、奏者たちにとっても、指揮者自身にとっても。

そういうことを繰り返しながら、ある曲の演奏がしだいにくっきりとした像を持つ演奏となり、一定の完成度に達した・・・そういう演奏が、フロイントの録音物や演奏会では聴かれる。これらが、解釈上かなり独特なところを持ちながらも奏者たち自身の自発性に強く支えられた、すぐれた音楽になっているゆえんであろう。

合宿の最終日に、「運命」をまた演奏した。「また」というのは、秋に「演奏会」でやったばかりだからである。第1楽章の前半、演奏は、手馴れた感じで、やや淡々と進んでいた。悪い演奏だったのではない。むしろとても美しかったのだけれど、何かが大人しかった。それで(だと僕は思うのだけれど)指揮者Kさんは多分何かを感じて、コーダに入ってからびっくりするようなアッチェルランドをかけた。奏者は驚きながらもみんなそれにピッタリついて行く。このへんの柔軟さはフロイントならではである。その瞬間に何かが燃え上がった。この後のコーダの演奏は、すさまじい爆発的な力を持つ音楽になった。Kさんは指揮しながら吼えていた・・・

2002年12月28日

朝からバイトに行って4時すぎに帰り、風呂に行ったりしてからフロイントへ。

きょうは「第9」をやるというので、「1万人」で毎年歌っているというかたがた何人か(団員Sさんの知り合いらしい)が歌いに来てくださった。

「第9」は、ベートーヴェン唯一の後期のシンフォニーである。だから当然といえば当然なのかも知れないが、これは実に「後期」的な曲である。そもそも交響曲ってのは四重奏に比べたら大味にできているハズなのに、それが全然、それはもう「後期のベートーヴェンそのもの」のこみいった複雑な楽譜で、つまり難しくてサッパリ弾けないのだけれど、何だかんだ言いながら「では今日は第9でもやりましょう」って感じでやれてしまうフロイントって、ホントすごいよね。

そうそう、弾いたことはおろか、スコア調べたことすらロクにないアホ批評家なんかは、16番のカルテットを「作品18の世界に戻ったような感じがある」なんて書いていることがあるが、冗談じゃない、いっぺん弾いてごらんなさい。せめてスコアをよく見ることだ。16番カルテットは「後期中の後期」であって、書法の複雑さ精妙さ浮世離れの度合い、どこを取っても、後期の特徴を最も高度に備えた曲なのである。僕らビオラ弾きはいっぺん弾いたらイヤというほどわかる。作品18はおろか、「ラズモフスキー」に比べたって、音楽的密度・微妙さ複雑さ玄妙さは雲泥の差なのだ。

ところで、僕はてっきり第9だけやるのかと思っていたし、小西さんも最初はそう言っていたのだが、気が変わったらしくて急に「フィガロ(序曲)とハイドンをやります」

それで、やったのだが・・・実を言うと僕はこの2曲(ハイドン「ロンドン」は第1楽章だけ)で胸がいっぱいになってしまい、あと第9を弾きたくなかった。いや、弾きたくないことはない、弾きたいのだけど、これでもう十分に来たかいがあったなぁと思って、ハイドンを弾き終わったときは、しばらく呆然としていた。

モーツァルトでもハイドンでも、小西収の「フォルティシモ」の要求はすごいものがある。音楽が吼えるのだ。前にも書いたかも知れないが、「フィガロ」のコーダは「楽しいオペラのはじまりー、わくわく」どころではない、独特なブレーキのかかった弾力感のあるリズムで、地響きがしてくるような強烈な音が連打されるし、「ロンドン」の第1楽章展開部やコーダにかけても、まさに「たけり狂う」と言ってもいいような音たちの絶叫が聞かれる。

みんながそういう小西収の演奏解釈に感応して「やりたい音楽」が一致してきているからか、最近、ほんとうにすごい音がする。きょうも、ヴァイオリンなんか、少しいつもより人数が多いせいもあったかも知れないが、それはもうものすごく太い力強い音がして、「ごおおおぉぉぉっ」て聴こえてきていた。

モーツァルトだから、ハイドンだから、おとなしく抑制した表現で端正に演奏しなければならないなんてことはない。それはもちろんだ。だが、僕がよく知らないだけかも知れないけれど(とくに僕は最近の演奏を知らないので)、こんなに渾身の力で吼えるようなモーツァルトやハイドンは、僕はあまり聴いたことがなかった。むしろこぢんまりした流麗なだけの演奏が多かった。中で最もつまらないものとしてカラヤンのモーツァルトを挙げ得ると思うが、ジョージ・セルだってベームだって、もっと「18世紀的」な扱いに終始していたと思う。

小西フロイントの「40番ト短調」では、1楽章や4楽章でのめまぐるしくて遠い転調が「いちいち事件になる」と僕は以前書いたことがある。そう、モーツァルトはあそこで、どんな作曲家にも書けなかったような尋常でない異様な緊張に満ちた音楽を書いたのだ。そのことを小西フロイントの演奏は如実に示している。モーツァルトが書いた音楽にみなぎる、常軌を逸した苦悩の深さや鋭さに、指揮者がいつも新鮮な驚きを感じ、それに感応して奏者も驚きながら演奏しているから、ああいう演奏になるのだろう。それこそがモーツァルトの天才に忠実な演奏だと思う。

なるほど和音のきしみ具合にせよリズムの「複雑さ」にせよ、音楽技法的にはもっと「進んだ」音楽はいくらでもあるし、そういうものにも慣れ切っているプロ管弦楽団や著名な指揮者たちにとっては、モーツァルトのト短調交響曲で行われていることぐらい、「たいしたことじゃない」ように見えるのかも知れない。いかにもそう感じて「何でもない感じ」で弾いている演奏は多い。だが、それではモーツァルトの音楽には迫れないのだ。

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