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音楽を求めて 17〔大石 聡/2007.10.30〕 

第17章 音楽を無心に聴き、演奏すること。他者としての音楽と倫理について。1

九鬼周造(1888〜1941 哲学者・京都帝大教授)の「いきの構造(岩波文庫)」という名著を読み返す機会があった。この前参加してきた学会(精神病理の学会である)で、思いがけなくこの論文を引用していた発表があって、「そういえば昔買って棚のどこかにあるな」と思い出して読んでみたのである。コンパクトといっても良い長さの小論なのだが、非常に密度が高い論文で、読むのは容易なことではない。

私がこの本を最初に手にとったのは高校生の頃だったのだが、それは例によって、誰かがこの本をネタにして青臭い芸術論を声高にぶっていたのを耳にして「あ、その本知らんわ。やばいから(何がやばいんだか、ねぇ)読んどかな。」と思ったからであった。昔はそういう、他人に脅かされないための「防衛的読書」というようなものをしていた時期があったのである。本屋で探してみるとこれが薄っぺらな文庫本で、これなら楽勝楽勝と購入したまではよかったが、いざ読み始めてみるとこれがまた予想に反して、まるで「歯が立たない」のであった。まぁ、それも当たり前で、この本の主たるネタは「郭の掟(傾城は金でかふものにあらず、意気地にかゆるものとこころへべし)」やら「着物の着付け(ちょいと手軽く褄を取り)」やら「和音学理論(変位の程度は長唄に於いてはさほど大ではないが、清元および歌沢においては四分の三全音にも及ぶことがあり、野卑な端唄などにては一全音を超えることがある)」とかいったもので占められているのである。それをまた、九鬼先生が自分の師匠であるところのハイデガー/ベルクゾン譲りの、ラテン語哲学用語でもって乱れ撃ちしつつ解説して見せよう、という趣向になっているものだから、青臭い高校生如きには堪ったものではない。ま、それをえらそうに引用していた奴にも「絶対中身はわかってないわな」ということが即座に確信せしめられたので、11ページほど読んだところで当時の私は「とりあえずの目的は達した」と判断してパタンと本を閉じ、以来そのままこの本は棚の片隅で埃をかぶっていたのである。

さすがに高校時代から20年以上の年月を経て、業を経た「おじさん」となった私のことだから、今度はすらすらと読み進むことができ、たちまち掌心を指すが如くその内容を諳んじてみせたのだった、という具合にはコトは全然運ばないのであって、今でもやはり「難しいものは難しい」のであった。しかしまぁ、そこはそれ、ユング御師匠様やレヴィナス先生の超絶難解経典に日々触れているだけあって、難しくてわからない、という事態そのものの経験だけは豊富になって、そういう場合にどう接遇したら良いかは熟知せられているのである。あわてず騒がずコーヒーを淹れて啜りつつ、ハイデガー先生の用いるラテン語哲学用語の意味を辞典であたってみながら、ほほう、などと不得要領に頷いてみたりするものの、実際には辞書の解説でさらに「わけわからん」ようになるばかりなのであった。しかし、この手の本は、基本的に「わかるところだけを読む」というのが正しい読み方であり、解読できた断片的ピースを繋ぎあわせて、想像で勝手に「九鬼先生のいいたいこと」を補填したりするのが「愉しい」というくらいでなければならないのである。いってみれば推理小説を楽しむようなものであって、まぁ、そんな風に「良い加減」にすらりと、それを読了したというわけなのであった。

ドイツ近代哲学の精髄を学んできただけあって、浮世のしがらみなど超越したかのように難しい抽象の世界に遊ぶようになった、というあたりが凡人の常だと思うのだが、九鬼先生の場合は全然そうではないのであった。「学問は実用してなんぼやんか」といわんばかりに九鬼先生は、ローカルだが己の骨の髄まで染み込んだ人生体験であるところの「遊里の作法」や「着物の着付け」の粋っぷり、といった卑近な興味に対して、ハイデガー先生に教わってきたことを「そのまま直ちに適用」してみるのである。こういうあたりの九鬼先生の、その徹底的にクールでプラクティカルな知性の在り方を、私は深く愛する者である。哲学そのものは、ただの思考ツールに過ぎない。それがいかに精緻で奥深い構造であろうとも、それそのものに耽溺し、循環参照的に自閉するような自己愛的な知性を私は好まない。そういう意味で「いきの構造」というのは非常に野心的で優れた書物だ、と今さらながら私は思ったことであった。

ところで、この「いきの構造」を読むことによって、私も「いきとは何か」ということがすっかりわかってしまい、たちまちその日から「いきなおじさん」なるものに変身したかというと、全然そんなことはないのであった。実はこの本は、「どうすればいきが解り、いきに振る舞えるか」を解読した本ではないのである。そうではなく、九鬼先生は「人が『いき』を感ずるとはどういうことか」「その感じ方にはどのような構造的特質がみられるか」ということを、徹底して追及しておられるのであった。いきの存在本質、つまり「いきのエッセンス(essnetia)」というようなものを追いかけても「まるで意味がない」と、九鬼先生は述べておられるのである。これこれ、こういう条件を満たすものが「いき」である、という具合に、「いき」というものが実体的に確定可能であり、それさえわかれば自分もたちどころに「いき」を極めた境地に至れる、と考えているような人間(私のことか)のことを「野暮」というんだよな、と九鬼先生は思っておられるのである。

いきな「もの」や、いきな「行為」といったものが、それ「そのもの」として実体的に存在するわけではない、ということを九鬼先生は丁寧に説明して下さる。むしろ、それは「属人的」な現象であって、「いきな人」がすることは何であれ「いき」なのだし、それを「うーん、いきだねぇ」と看るかどうかもまた、その看る人が「いきな人」であるかどうかが決している、というわけである。それは人が世界に関与する際の「構え」のようなものであり、その人の属する文化に固有の「世界の眺め方」のうちに存しているのであって、世界の裡に固有のものとして実在するわけではない。確かにそういわれてみれば、そんな気がしてくる。「いきなもの」という即物的「リスト」を作ってみても、それはいくらでも作れ、そこから本質を抽出することなどできっこないからである。ちょっとやってみようか。

    盃がいきで、ぐいのみは野暮。
    阪急がいきで、阪神が野暮。
    ローカル線鈍行がいきで、新幹線が野暮。
    オンザロックがいきで、水割りは野暮。
    オムレツがいきで、オムライスは野暮。
    飛竜頭がいきで、はんぺんが野暮。
    しらたきがいきで、マロニーが野暮。
    プジョーがいきで、BMWは野暮。
    フルートがいきで、オーボエは野暮。
    お正月がいきで、クリスマスは野暮。
    ミナミがいきで、キタが野暮。
    柴犬がいきで、プードルが野暮。
    学生服とセーラーがいきで、ブレザー制服は野暮。
    心療内科がいきで、精神科は野暮。
    手紙がいきで、メールは野暮。
    カーディガンがいきで、セーターは野暮。
    ぬる燗がいきで、あつ燗が野暮。
    チノパンツがいきで、スラックスは野暮。
    萩がいきで、コスモスは野暮。

    などなど。

要するに「いき」というのは、世界に対する「関与の様態=構え」としてだけ意味があるものであって、実体はない、というのが九鬼先生のお教えなのであった。それは「いきを感ずる」とか「いきに生きる」といったふうに、実際に生命が動いてゆく際に、生命と世界の「境界」に生ずる何か、なのであって、「いきな何か」が実体として存在しているわけではないのである。そうか、そうだったのであるか・・・。と、いうことが腑に落ちたそのとき、私の中に不意に、ある一連のエピソードたちが想起されたのであった。

それは幾つかの実際のエピソードが「同種のこと」として私の中に蓄積され、ある種の「不思議なこと」、つまり「問い」として前景化していたものであった。それは「無垢である」ということが、音楽を享受し・演奏するに際してどのように作用するのか、という「問い」だったのであるが、私はその「無垢」という概念が、九鬼先生の仰る「いき」という概念と、ちょうど「相似の関係」に置かれている、ということに思い当たって、不意に全てが「わかった」ような気がしたのである。その昔、アルキメデスは風呂の中で「エウレカ!」と叫んだそうであるが、私もその故事に習って「エウレカ!今全ての円環が音をたてて繋がった!!」と叫びたい気持ちであった。

***

まずそれらの「エピソード記憶」について、思い出すままに再生してみよう。

昔、私が大学生になって、オーケストラに入団して間もない頃の話である。クラシック音楽に全然無知だった私は、その未経験の音楽に親しませてもらおうと(いうことを口実に)、よくオーボエ吹きの先輩の下宿にノコノコ上がり込み、そこでの自由で無為な時間を愉しんでいた。先輩ご自慢のステレオが、凄まじい大音量でベートーヴェンの「英雄」交響曲の第2楽章を響かせる。薄汚れた下宿の薄い壁はびりびりと振動し、下宿の二階からは「うるさいぞー」と怒声が飛んだりすることもあったのだが、先輩は「ええからお前も一緒に聴け!」などと怒鳴り返しつつ、苦情を意に介する様子は全くなかったのであった。コンビニで買ってきたおにぎりをぱくつきながら、私は
「へぇ、なんかこれって、惚れた女に打ち明けようかどうしようかって悩みながら、のろのろ自転車こいでるって感じの曲ッスね。」
なぞと、あまりにも的はずれな感想を無邪気に漏らしていたのであった。すると、それを聞いた先輩、つまり大友さん(現フロイント団長の大友一三その人のことである)が、何だかまじまじと私の顔を見てため息をつき、こんなことを言うのだった。
「何かなぁ。そういうの、めっちゃ羨ましいわ。」
何のことかわからない私は、きょとんとして「何のことです?」と聞き返した訳だが、大友さんの説明はこうだった。

つまり、自分はかなり幼い頃からクラシック音楽を聴き漁ってきて、こうした曲について既に良く知ってしまっている。ベートーヴェンのエロイカも何種類も聞いているし、生演奏も繰り返し聴いて細部まで良くわかっている。自分でオーボエを吹いて演奏したことすら、ある。ベートーヴェンの生涯についてもおおよそを「知識」として知っているし、その作曲の時代背景や、曲にまつわるエピソードなんていうものも、いろいろとわかっている。
「でもなぁ、そういうのは曲を聴くときホンマは邪魔やねん。なんちゅうか、今のお前みたいには、無心に聴かれへんやろ。」
と、彼は言うのだった。そう云われても、その頃の私には「充分な知識や経験を背景としてクラシック音楽を享受する」という体験自体がない訳だから、「ははぁ、そういうもんですかねぇ・・・。」としか、答えようがないのであった。無知であることをしみじみ羨ましがられるというのは、何だか「バカで羨ましいよ」と云われているようでもあって、そういう意味では複雑な気分でもある。しかし
「お前のアタマとちょっととっかえっこして、今この曲を聴いてみたいもんやわ。」
とまで云われたので、その時のエピソードは、その後も長く私の中に「不思議なこと」として刻みつけられて残ったのであった。

その後も、何度か「あ、これはあの時のエピソードと同じ種類のことだ」という出来事に、私は遭遇した。

クラシック音楽が「何だか良くわからない」状態であった私が、2番オーボエ奏者のアシストという立場で小西収の指揮するシベリウスの2番交響曲のリハーサルに参加して「激しい一撃」を受け、突然クラシックが「わかる」という状態に変貌したことは、この「音楽を求めて」でも何度か触れたことである。その後の私は、あれこれの演奏を聴き漁って曲を知り、演奏を知り、音楽にまつわる知識を得ることをごく素朴に「良いことだ」と考えていたように思う。その時点では、私は知識がふえることに「疑問」のようなものはぜんぜん抱いていなかった。だから、演奏会で取り上げられる曲が決まると、私はその曲の録音を数種類集め、聞き比べをして演奏に臨むことを「ごく自然なこと」のように思っていたのである。
ところが、そのことを隣にいるフルート吹きに話すと、彼女は「えー!」と激しく不満気な顔をするのであった。そのフルート吹きの彼女(というのは現フロイント・フルート奏者のOさんその人のことであるが)にいわせると、
「そういうのんは、なんかちゃうねん」
だ、そうなのであった。
「だっていろいろ聴いてしもたら、先入観がついてしまうやんか」
と、彼女は云うのであった。だから彼女は、やると決まった曲については、(私とは正反対に)なるべくCDを聴かないようにしているのだ、というのである。そういわれてみると「そういうもんかしら」と思わないでもなかったのだが、何せ私は譜面が読めないようなスカタンなオーボエ吹きであったので、曲を聴かないで演奏に臨むと哀しいことに「曲そのものが吹けない」のであった。だから、残念ながら「曲を聴かずに演奏に臨んでみる」という経験をすることは不可能なのだった。困ったものである。

「既に完成された譜面のある曲を弾くこと自体が、なんかちゃうねん」
というラディカルな意見に出会ったこともあった。大学オーケストラの同期に井上幸祐というダブルベース奏者がいたのだが、彼は「ジャズ」がメイン・フィールドで、オーケストラへはジャズを演奏するための「基礎練習みたいなもん」をやりに来ている、という変わった男であった。彼が云うには、曲について色々知ってしまっていることが「演奏に悪影響を与えてしまう」のはもちろんで、それどころか音楽演奏というものは「今まさにそこで産み出される」ことが大切なので、
「楽譜がある、ちゅうこと自体が邪道やねんな、なんか。」
というのであった。そういえば、ジャズ音楽というのは基本的にアドリブ(即興=インプロヴィセーション)で演奏されるのである。楽譜すらそこにはなく、演奏者がその場の流れを感じて「次の音」を自ら産み出す、というのだから、それはいわば「究極のまっさら演奏」といえなくもない。
「だからな、要するにジャズは、クラシックに優越してるねん」
と、いうのが彼の主張であったのだが、当時の私には「それもなんか違うわなぁ」という感じはありながらも、上手くその意味を言葉にすることは出来なかったのであった。少なくとも彼は、それを相当「本気で信じている」ことだけはわかったし、実際彼はその後、プロのジャズ・ミュージシャンというものになって、それを実践してみせたのであった。

***

これらの一連のエピソードは、音楽の享受・或いは演奏という行為に於いて、その行為者が「無垢である」ということに「本質的な意味があるのだろうか」という問いだ、と捉えなおすことが出来る。

先に挙げた大友一三とのエピソードは、音楽についての知識や経験といったものが、純粋な音楽享受を妨げることが有り得る、ということを告げていたのだと考えられる。確かに、何の予備知識もない人間がベートーヴェンの音楽にはじめて触れたときに感じることは、既にモーツァルトを充分知っている人間がその音楽に触れたときに感じることと、質的に異なっているに違いない。同じことは音楽演奏に際してもあらわれるはずであり、だからこそ演奏者としてのOさんは「出来るだけ無垢な状態で譜面と対峙する」という構えを大切にしていたのだろう。さらには、井上幸祐のように、その演奏行為者の「無垢性」といったものを音楽形式にまで展開して、その頂点にあるのが「即興=インプロヴィゼーションである」と主張する人間もいたわけである。

私はこれまで、何度もこの「問い」について考えてみたのであるが、この「無垢」という概念について考察を深めるのは、なかなか困難なのであった。なぜなら、その人が「無垢である」ということは、その人が「バカである」「無知である」「未熟である」ということと、本質的には同義であるからである。

大友一三が「お前のアタマととっかえっこしてみたい」と云ったのは、別に「大石のような音楽に無知な(バカな)人間になりたい」と告白しているのではないのであって、彼のいいたいことは要するに「経験や知識を取っ払って、虚心に音楽に接したい」ということであったに違いない。しかし、それも突き詰めて考えてゆけば、やっぱり「経験や知識をとっぱらったらバカになっちゃうんじゃないの?それは無知であることと本質的に違うのかしら?」という疑問に突き当たってしまう。経験や知識、といったものを「音楽に対する感受性」から分離し、それだけを純粋に「取り払う」といったことは、本当に可能なのであろうか。「無垢」というのは、経験や知識から「離れたところ」にあり、経験や知識に汚染されない「原初の清浄」のようなものであって、そうであるからにはもちろん汚染などは無いほうが無条件に「良い」のであって、要するに無垢であればあるほど良い、ということに他ならない。要するに「無垢」というのはそういう観念である、ということで本当によろしいのであろうか?

産まれたての赤子がベートーヴェンを聴くのは、確かに「無垢な状態での音楽聴取」では、あろう。しかし、そこに高度な感動体験が生じるかと云えば、そんなことはないのであって、せいぜいフォルティッシモで「ぎゃー」と泣き出してしまうのが関の山であろう。それは、赤子が未だ知性や言語能力を備えていないから、という問題のようでもあるが、しかし単純に知性や言語能力だけの問題でもない。現に「大学生であった私」は、一応の知性や言語能力を備えていながら、ベートーヴェンの例の葬送行進曲から「惚れた女に打ち明けようかどうしようかって悩みながら、のろのろ自転車こいでるって感じ」というような、貧しい感想しか引き出せていないわけである。私の名誉のために急いで付け加えておけば、それは単純に「本質的な感受性の差だろ?」というような結論にも落とし込めないのではないか、と思うのである。だって、その後の私は、同じ葬送行進曲を聴きながら激しく感動し、深い感銘を覚えて涙ぐんだことだってあったのだから。原初の本質的感受性が致命的に損なわれている人間には、そのようなことは起こらないのではないか。「のろのろ自転車」の時の「私」には、「きっと音楽感受性なんて欠片もなかったんだよ」というのは、いくらなんでも言い過ぎであろう(まぁ、そうかもしれないが・・・涙)。そこには多分、少なくとも音楽感受性の「萌芽」のようなものが潜在していたはずだし、その後それは「経験」によってむしろ育ち、顕在化したと考える方が理に適ってはいまいか。経験や知識というのは「無垢な感受性」にとって、「汚染」どころか、むしろ「必須栄養素」のようなものなのではないのか。

このように考えれば、音楽に対する「感受性」というものについて、それそのものが経験や知識と「独立したもの」と見なすことに、私はあまり積極的な意味が見出せなかったのであった。私が云いたいのは、音楽に関する「感受性」といったものは、それが「生来のもの」として最初から「完成型で備わっているもの」だと考えるべきではない、ということなのである。それは人間の他の「感性」と同様、経験や知識といったものによって、少しずつゆっくり「育ってゆく」ものなのではないだろうか。だとすれば、それを経験や知識から完全に分離して論ずることは「意味がない」ということになる。つまり、経験や知識と完全に分離したところに「純粋なる感受性」といったものがあり、それだけで音楽に触れることを「無垢」だと定義してみても、そのような定義には「意味がない」のではないか、ということである。

完全に「無垢」な状態、つまり、経験や知識とかけ離れた純粋なる音楽感受性「だけ」で音楽に関与することを「理想」として観念し、それを「無垢」と名付ける。そのようなことをしてみたところで、それは「人間は成長すればするほど、経験や知識の獲得によって手垢が付いて汚れ、原初の清浄を喪ってゆく」という結論しかもたらさない。「バカであるほど音楽鑑賞に適している」とか「優れた演奏家になるために痴呆化すると良い」という知見は、あまり有用ではなさそうだ。無邪気な子どもがランダムに書き付けたオタマジャクシを見て「ううむ、これこそ絶妙なる音楽の極地だ」と唸ってみてもしょうがないし、となると、これは考察するための「無垢」という概念の定義の仕方が誤っている、と考える方が良さそうである。

ま、こんな具合で「原初の清浄としてのピュアな音楽感受性で音楽に触れること=無垢」という定義では、私の感じた「不思議なエピソード達」を上手く説明してゆくことが出来なかったわけである。

***

そんな風な「行き詰まり」状態のまま、その「問い」は私のアタマの中で、おそらく「未決」という名の付いた雑多な物置のようなところに入れられて、永年棚の上で埃をかぶっていたのだろうと思われる。そこへ天啓のように九鬼先生の「いきの構造」の知見が入ってきて、某かの「リンク」のようなものが生じて、関連事象としてその「問い」がヒットした、とまぁ、そんな具合のことが「起きた」のではあるまいか。私のアタマはどうも、そのような雑然とした構造になっていて、ときどき妙なリンクが本人の意志とは無関係に生じて、そこから発作的に奇天烈なる変痴奇論が導かれる、ということになっているようである。その逆に、ある種の理路に基づいて整然と考察を進めてゆくうちに、ある美しい結論に導かれる、というようなことは、私の身にはさっぱり起こらないのであった。

話を戻そう。九鬼先生の「いきの構造」では、何が述べられていたのであったか。それは、「いき」というのは実体ではなく、人が世界に「関与するときの様態=構え」のようなものであって、生命と世界の「境界」に生ずる何かである、ということであった。私のアタマに閃いたのは、私の云う「無垢」というのもそれと同じように、存在として実体があるものなのではなく、ただ人が世界に「関与するときの様態=構え」として考えるべきものなのではあるまいか、というアイデアなのであった。「無垢に音楽に接する」ということを考える際に、私は「無垢な存在」について、あたかもそれが実在するかのように考察しようとしてしまった。つまり、私という人間が「無垢である」という、存在の有り様について考えてしまったのだった。しかし、それは九鬼先生が仰るように「全く無駄なこと」なのであって、だからこそ私は失敗したのではなかったか、ということであった。

経験や知識と分離した「純粋なる音楽感受性」といった実体を想像し、それを「無垢なる主体」として構想しようとしていたことが、そもそもの「間違い」だったのであろう。人が音楽をする上で、知識と経験が必要なのは当たり前である。音楽は、ただそれを経験することに拠ってしか学べない。経験や知識といったものと音楽感受性にはある種の「関連」が存在し、音楽感受性は知識や経験によって「涵養」されるのだ、ということを素直に認めてしまえばよいのだ。その上で、それまで音楽感受性を涵養してきた知識や経験といったものが、実際に「音楽に触れる場面」に際して、逆に音楽感受性の「自由な発露」を妨害する、といったことが起こり得る、と考えてみればどうだろうか?

音楽感受性そのものは、それが成長するのに経験や知識を「必要」としているのだが、それが実際に音楽に対して「機能する場面」では、経験や知識から「離脱」しなければならない、と考えるわけである。ポータブル電気機器というのは、確かに充電しないことには機能しないわけだが、実際に使用するときには充電するクレードルから本体を切り離さないことには上手く機能しないわけなのであって、こういうのって「ありそうなこと」ではないだろうか(『無垢』という概念の例えとして、ポータブル電気機器を持ち出すというのも如何なものか、とは思うが)。ここでは「無垢」という概念は、その「主体の有り様」を表すのではなく、純粋に「音楽鑑賞」や「音楽演奏」という、主体が音楽に直接接触するその「接触面」においてのみ問題となる、純粋に「機能的な問題」として観念されている。要するに「無垢」というのは、「存在そのもの」の様態ではないのだ。「純粋な私=無垢」といった存在様態としての「無垢」を考えると、それは本質的に「バカ」ということと同義にしかなり得ず、赤ん坊の時がベストで、あとは常に「無垢」から遠ざかるばかり、といったことしか帰結しない。しかし、主体が外界と関わるときの在り方の一つとして「無垢な関わり方」といったものが、ある種の「関与の様態=構え」として現前することがある、と考えれば純粋に「機能的な考察」が出来る。そう考えればよいのではないか。

ここでは九鬼先生に倣って、「無垢」という概念をそのような「機能的様態=構え」として、定義してみたい。つまり「無垢に音楽へ関与する」という、その仕方について考えてみる、ということである。それは、その主体に経験や知識が「有るか無いか」という事実そのものとは連関しない。経験や知識そのものは「有る」に決まっているし、そもそもそれがないと、主体の音楽に対する感受性は涵養されないのである。しかし、その当の音楽についての経験や知識が、音楽の享受や演奏に際して悪い意味で「足を引っ張る」ことが確かに有り得る。だから「無心に音楽を聴く」とか「無垢に譜面と向かい合う」、或いは「音楽を演奏するときは究極的には即興でなければならない」といったことについて、「無垢」という機能的概念を介して考察してみることは、有用であろう。

それが何かについての「関与の仕方=構え」であるというならば、これについては、私が日頃の精神科臨床に於いて「他者への関与の仕方=構え」について、常々お世話になっているお師匠様たちの出番である。いつものようにユング先生やフロイト先生、レヴィナス先生といった「諸賢」らにご登場願って、話を進めてゆくことにしよう。

***

その昔、クラシック音楽に関する知識と経験を欠いていた当時の私が、エロイカの第二楽章について吐いた感想である
「へぇ、なんかこれって、惚れた女に打ち明けようかどうしようかって悩みながら、のろのろ自転車こいでるって感じの曲ッスね。」
というものに対して、かつて大友一三は「知識や経験から離脱した、無垢な音楽享受の構えから産み出された感想」だという「感じ(好感)」を抱いたのであろう。ただ、残念なことに、正確にはそれは「知識や経験から離脱した」ではなく、「知識や経験を欠いた」であったわけなので、大友一三の云わんとしたことは、私には上手く理解できなかったのであった。

ではこの実例とは逆に、この場合の大友一三が「知識や経験に絡め取られた、無垢ではない音楽享受の構えから産み出された感想だ」といった「感じ(不快感)」を抱いたであろう、と考えられるエロイカの感想があるとすれば、それはどのようなものであったろうか。想像的にそれを仮想構築してみよう。

「あ、これって、3日前に新譜で出た○○指揮の××フィルのエロイカですよね?××フィルの○木○輔のオーボエは異常にねちっこいから、すーぐ区別がつくんスよねぇ。あ、でもやっぱ弦の澄んだピッチは抜きんでてるなぁ。今月のレ○芸で『ほにゃらら』が特選に推してましたけど、あの人って絶対グラ○フォン系列のアーチスト褒めないんですよね。何かあるんですかね?あ、記事にあった通り、こんなところでくしゃみの音が入ってら。編集で消しときゃいいのになぁ。ここでこんなくしゃみされたら、クラリネットはソロ入りづらかったでしょうねぇ。ははは。」
と、いったものはどうであろうか。

ちょっとマニアックな色彩を帯びてしまったのは割り引くとして、この仮想構築された感想を吐く「私」は、エロイカの葬送行進曲という音楽の鑑賞に当たって、自分の知識や経験と「照合する」という作業に、その殆どのエネルギーを費やしてしまっているように見える。知識や経験が豊富である、という事実は、このように今目の前に展開しつつある具体な経験を、自分の裡にあるその「知識と経験」に落とし込んで理解する、といったスタイルを呼び寄せやすい。知識や経験は、それが豊富であればあるほど、それとの照合作業や解釈作業が多岐に渡り、煩雑になる、といったことを帰結しがちなのである。忙しく「それ」を繰り返すだけでも多量に脳のリソースを占有してしまい、音楽を享受する、という(本来もう少し多様であるべき)経験が、ほぼ100%「それだけ」に終始してしまう、という危険性は確かに高くなるであろう。

主体が知的であろうとすれば、知識を増やし、体験を積むしか他に方法はない。しかし、知識や体験を蓄積した主体は、その蓄積が膨大となればなるほど、新たな知識や体験に対して、それを「既知のものとの照合」によって処理しようとする傾向を帯びるようになる。このように、「知」というものが構造的にその内部に抱え込んでいる「自閉的傾向」のことを、かつてエマニュエル・レヴィナス先生は『光の孤独』という風に、述語化されたのだった。

『光はこうして内部による外部の包摂を可能たらしめる。それがコギトと意味の構造そのものなのである。思考はつねに明るみであるか、あるいは明るみの予兆である。光という奇跡がその本質をなしている。光によって、対象は、外部から到来してくるものであるにもかかわらず、対象の出現に先行する地平を通じて私たちにすでに所有されている。対象はすでに知解された『外部』から到来し、あたかもわれわれに起源を有するもの、われわれが自由意志によって統御しうるものであるかのような形姿をまとうのである。』(エマニュエル・レヴィナス『実存から実存者へ』)

ここでレヴィナス先生の云われる「光の孤独」というのは、すべての出来事が「既知」として顕現するような、知の絶対的孤独のことである。このような「知」にとって、「本当に未知なるもの」は存在しない。なぜなら、このような主体は、どのように新しい知に触れようとも、どのような斬新な体験をしようとも、それを既に蓄積した「知」に還元して処理してしまい、「既知」に繰り込んでしまうからである。何を告げられても「あ、それは想定内です」と返答し、どのような事態が発生しても「へぇ、まぁそれも織り込み済みですよ」と平然としてみせるような主体(いましたね。そういう口癖でマスコミと一緒にバカ騒ぎしてた人が)は、自分の中の「知」が豊富かつ網羅的であることをショウ・アップし、ひいては自分という「主体」が如何に人より優れているか、といったことに拘泥するあまりに、実際には「光の孤独」と呼ばれる絶対的孤独の裡に取り残されているのである。「知」による主体の富裕化を目指し、己の「知の牙城」を構築しようとする者は、須くこのような危険に陥る可能性を秘めているのだが、我々はそのことに対してあまりにも無防備なのではないだろうか?

このレヴィナス先生の「光の孤独」という概念にはじめて触れたときの衝撃を、私は未だに忘れることが出来ない。それは「最終的」といっても良いような絶対的な孤独である。しかし、その孤独の「徹底性」は、その孤独に在る者が感じるであろう「恐怖の強さ」に由来しているのではない。「光の孤独」という孤独の在り方そのものが非人間的に恐ろしく、そこに閉じこめられることが人間には耐え難い「恐怖」だというわけではないのだ。だって、実際に「光の孤独」の裡に取り残されている主体は、全然「恐怖」なんて感じていないからである。実は人間は、「知の孤独」に在っても「平気」なのである。何故なら、「知の孤独」にある者は、自分が孤独だということに、構造的に気がつけない仕組みになっているからである。その孤独は、孤独であることに当の主体が「気がつくことができない」種類の孤独である、ということによって「絶対的」たり得るのである。孤独を感じることも不可能なほどに、絶対的な孤独。そのようなものに、自分もまた「囚われているのかもしれない」ということに気が付いて、私は急に恐ろしくなって震えたのである。

学習=知識を得て・経験を積むこと、と定義したとき、それはただそれだけでは、そのまま「良きものである」とは言明できない。その理由が、「光の孤独」という概念には尽くされている、と私は思う。学習が、ただ「私」という主体が「富裕化する」ことを目的としているとき、それは出口のない自閉的な営みとなるしかない。「私」が知識を得れば得るほど、「私」はどんどん新たな知識に対して「これは見たことがあるな。ああ、アレの仲間か」といった具合に、新鮮な感動を喪ってゆく。経験が豊富になった「私」は、何を体験しても「あの時の体験と似ているな」というような感想しか抱かなくなってしまう。全てを「既知の光」で照射し、明るみの中に引きずり出しては「知っているもの」とラベルして内包してしまう。そのような主体には、もう「未知なるもの」は存在し得ない。確かに、どのような主体にとっても「未だ知らないもの」が何も無くなってしまう、ということは有り得まい。人間は有限であり、全知に達することはない。「未だ知らないもの」は永久に存在し続けるであろう。しかし、それらは「未だ知らない」ものではあるが、同時に「いずれ既知となり、ラベルして私のものになる」ことがもう既定されているのだから、それはもう「未知」とは呼ばれないものなのである。未知なるものは、そのようにして「消失する」のである。正確には、それが自ら姿を消したのではなく、主体が「既知の光」を通してしか世界を見ようとしなくなったとき、未知なるものはその「主体が発する光」によって、かき消されるようにして「消滅させられる」のである。

このようにして「未知なるもの」を喪失し、「光の孤独」の裡に自閉した主体のことを、レヴィナス先生は「同一者(le Meme)」と術語化されたのだった。前回の「音楽を求めて(16.ある目的のために音楽を享受すること。音楽と時間について。)」の中で触れたように、この「同一者的主体」には「未来」というものが存在しない。未知なるものに開かれず、全てを「既知」に還元するだけになった主体は、「時間」というものを喪失するのである。本来、未来とは主体にとって都合の良いことも悪いことも含んでいる。未来とは「不意打ち」として顕現するより他にないものである。

『未来の外在性は、未来がまったく不意打ち的に訪れるものであるという事実によって、まさしく空間的外在性とは全面的に異なったものである。(…)未来の先取り、未来の投映は、未来というかたちをとった現在にすぎず、真正の未来ではない。未来とは、捉えられないもの、われわれに不意に襲いかかり、われわれを捉えるものなのである。未来とは他者なのだ。』(エマニュエル・レヴィナス『時間と他者』)

この「未来とは他者なのだ」というフレーズに、レヴィナス先生のいう「知」の在り方の「要」となるものが籠められている。知識に囚われないこと。経験に囚われないこと。「今」に踏み止まって「未来の未知性」に開かれて在ること。既に過去となった「既知」に囚われないこと。私たちの知が「光の孤独」に自閉してしまわないために、私たちはそのような「主体の構え」をとらねばならないのであり、そしてその構えを担保してくれるものを必要としているのである。そして、それこそがレヴィナス先生の仰る「他者」に他ならない。人間を人間たらしめているのは、「他者」なのである。人間は「他者」と向かい合い、「他者」を求め、「他者」から見つめられることなくして、人間でいることが出来ない。人間とは「他者との関係性」の中に於いて、はじめて人間たり得る存在なのである。レヴィナス思想は、そのようにして「他者」という鍵概念によって形作られている。

レヴィナス先生の云う「他者」が何なのかを、一義的に定義することは不可能である。それは人間にとって、共感も、理解も絶しているものであり、にもかかわらずそれを羨望し、それを求めずにはいられないようなものである。そのようなものを実体として、人間が言葉に定着できるだろうか。それは、この世に「存在するもの」とは違った形で我々に触れてくるものたちである。我々は常にその「他者」に召喚され、答えることのできない問いを突きつけられ、そこに立ちつくすことを強要される。それは或いは「神」なのかもしれない。それはまた或いは「死者」なのかもしれない。未来もまた「他者」なのであろうし、弟子にとっての「師」もまた他者であるのだろう。芸術家にとっての「芸術」もまた他者なのかもしれず、クライマーにとっての「山」もまた、他者なのかもしれない。それらのような「名づけようのないもの」が触れてくるので、人は「やむにやまれず」に神に祈り、死者を弔い、未来を占い、師に仕え、狂ったように芸術創作を続け、魅入られたように山に挑み続ける。そのような行為を通して、人ははじめて「人間」というようなものになる。と、いうか「そのようにしか生きられないもの」が、その昔に猿と分岐して「人間」という存在になったのである。レヴィナス先生はそのような「原人間」の有り様について、つまり、そうした「名づけようのないもの=他者」に接遇するための作法=主体の構え、というものについて考究されたのである。そして、その人間存在の根本に関わる構えのことを、あらためて「倫理」と名付けられたのである。

***

音楽を「無垢」に聴く。譜面に対して「無垢」に向かい合う。次の音を「無垢」に発するために即興=インプロヴィセーションにこだわる。これらは全て「音楽」というものに向かい合う、主体のある種の「構え」のことを意味している。音楽というものに接遇する、主体の構えが「無垢」であるというのは、どういう意味なのであろうか。

主体が、その存在として「無垢」であるのではない。存在としての「無垢」は、ただ存在として「空っぽ」であることしか意味しない。音楽は、それを聴き、演奏するにあたって、相応の知識と経験を要求する。「存在として無垢な主体」は、音楽を聴くことも、演奏することもできはしない。だから、主体は存在として「無垢」であることはできないのである。知識を吸収し、経験を積まなければならない。しかし、知識や経験を積むことは、決して主体の「富裕化」を目指すためではない。そうであれば音楽は、主体にとってただ享受される「餌」のようなもの、ということになってしまう。主体が音楽的な「知識」や「経験」といったものに充たされることを自己目的化し、それを満足げに他と比較したり、トリヴィアルな差異に自己満足するとき、主体は「他者」を喪って「光の孤独」の裡に閉じこめられることになる。

音楽の専門家(プロフェッショナル)を目指すことは、しばしばこのような「光の孤独」を帰結しやすい。音大の教員にとって自分の「知識や経験」とは、それを切り売りして食べてゆくための「財産」に他ならない。プロ・ミュージシャンの技術も、それをショウ・オフすることが「食い扶持を得る」ことに直結しているという意味では、たいして事情は変わらない。音楽を「管理」して「切り売り」するためには、音楽というものに「知の光」を照射し、それらを相対化できる存在の方が「有利」なのである。そのような者にとって音楽の学習とは、「自分を富裕化する」という目的に特化することを避け難いであろう。もちろん、アマチュアであるからといって、そこから決して自由であるわけではない。基準の明瞭なコンクールに参加して「評価」を得ることや、公開演奏会に客を集めてショウ・オフする、といったアマチュアによくみられる音楽活動自体について、それらとプロの活動との本質的な違いを見出すことは難しい。音楽について「マニア化」することもまた、狭い仲間内でのトリヴィアルな差異を巡って自己富裕化することに他ならないのだから、何にせよ「光の孤独」に閉じこもっていることには違いがないのである。

音楽に於いても「学習」は行わねばならない。しかし、それそのものが自己目的化してしまえば、いずれ主体は「光の孤独」の裡に閉じこめられてしまう。それを打破するために必要なのは、レヴィナス先生に拠れば「他者」なのであり、「他者」に接遇する「主体の構え」としての「倫理」だということなのであった。音楽が主体にとっての「他者」であり続けるためには、それに「倫理」をもって接するしかない、ということである。だとすれば、ここでいう「無垢」というのは、音楽という「他者」に接遇するときに人間が要求される「構え」、すなわち「倫理」の別名のことではないのだろうか?

***

これまで「音楽を求めて」で私が述べてきたこと。それは、音楽を体験するということは、「私」というもの、つまり主体を解体し、新たに作り直す、という体験であるということであった。小西収のシベリウス2番交響曲は、まさにそのようにして「私」を解体し、新たな「私」を再生するためにフロイントへと駆り立てたのだった。音楽に「感動する」ということは、音楽によって「快楽をもたらされる」こととは、恐らく全く異なっている。ある音楽を聴いて感動した、というとき、その音楽を聴く以前の「私」は、もうそこには「いない」のである。私という主体は、その音楽を体験することによって「決定的に変わって」しまったのである。私はもう、その音楽を体験する以前の「私」には、戻ることが出来ない。音楽というものは本質的に、そのようにして人間を解体し、あらたなる「私」へと連れ去る契機を与える「他者」に他ならない。

そう、私にとって、音楽とは『他者』だったのである。

小西収のシベリウス2番交響曲。あれは私にとって、音楽というものが「他者」存在としての相貌をはじめて露わにした、そういう体験だったのである。私はその体験を何とか言葉にしたくて、つまりそれを知解するために音楽を聴き、知識を増やし、言葉を紡いできたのであろう。しかし音楽が「他者」だというのならば、音楽そのものを『わかる』ことは人間には不可能だということである。むしろ「他者としての音楽」は「わかられる」ことを拒絶している、と云うべきなのかもしれない。それは「他者としての神」が理解を拒絶していることと相似的である。私は神の云うことがわかる、と言い募ることほど、神に対して「不敬なこと」は存在しない。だからこそ、レヴィナス先生は神のテキスト=聖書の聖句を「文字通り」に解釈し、「私にはそれがわかっている」と言い募る原理主義者に対して、「あなた達こそ最も不敬なるものである」と告げたのである。

それは、人間にとって「共感と理解を絶したもの」であるからこそ「他者」たり得る。むしろ「他者」をそのような「理解を絶したもの」として「接遇しようとする」こと、そのような「構え」を持つこと自体が、人間を人間たらしめている、と言えるのではないか。そのように「他者」と「人間」との関係は相互に依存し、ねじれながら逆転しているというべきなのである。だから「他者としての音楽」は、理解とは「かけ離れたところ」から人間を魅了し続けてやまないのである。どのようにしても届かず、しかし、それに触れることなくしては、もう生きてゆくことが出来ない。そのようにして音楽は、この世に「存在しているものとは別の仕方」で、私たちに「触れてくる」ことを止めないのである。その意味で、まさに音楽とはレヴィナス先生の仰る「他者」に他ならないのである。

そのような「他者」としての音楽との接遇は、それそのものが「人間を人間たらしめている」ものであるのだから、自然それは人間存在の全てを捧げるような「凄まじいもの」にしかなり得ないであろう。だからこそ、弱い人間である我々は、音楽を「理解」することで「貶めよう」としてしまうのかもしれない。音楽を「知識」として登録し、その「体験」をも整理分類することができれば、人間は音楽を自らの「知の一部」として内包することが出来る。音楽を「支配」し、それをただ人間に仕えるものとして「享受する」こともまた、人間には簡単に出来てしまうのである。音楽を薬として服用しようとする「音楽療法」は、まさにこのような音楽との関係の在り方を、典型的に示しているものではなかったか。そこにはもう、人間存在を揺すぶり、人間そのものの在り方を根底から変えてしまうような、「他者」としての「音楽の超越」は存在しない。感動に伴う熱気も、激しい揺らぎもなく、そこにあるのはただ「音楽的快感」という、同一者にとっての「測定可能な差異」ばかりである。

そのようなものは、もはや「音楽」の名に値しない、と私は考える。しかしそれは、その音楽自体に「内在しているもの」が無価値であるからではない。音楽をそのようなものに貶めたのは、その音楽に接遇しようとする主体の構え、すなわち「倫理」に他ならない。音楽が、音楽の名に値しない「何ものか」に変わってしまったのではない。そのとき、音楽という「他者」の前にたたずむ人間が、自ら人間であることを「止めた」のである。人間は、そのようにして進んで「知の孤独」に自閉しようとしてしまう。それは人間が弱い存在であり、「全てを自らが把握できる」という心地良い夢に浸りたいからである。しかし、それはまたある意味では、人間が「人間としての本質」を捨て、人間でなくなる、ということなのかも知れない。

***

音楽とは、それに関与しようとする人が、ある種の「倫理」、つまり「無垢」という節度を持って関与するならば、その人にとっての「他者」で有り得る。これまでそのように考えたことは一度もなかったのだが、これは私にとって、目から鱗が落ちるような「発見」であった。

私はこの「音楽を求めて」を書き始めるにあたって、それを書き始めることを後押しした個人的体験である、古いフロイント・メーリングリストにおける「音楽における普遍的価値」を巡る議論があったことに、以前触れたことがある(音楽を求めて5「価値論を巡る議論のその後。『万物価値論』の衝撃について。」参照)。だから、この「音楽を求めて」という文章には、小西収と大友一三の、次のような言葉がずっと通底している。

『普遍的価値があるものは確かに存在するが,その価値は客観的に決定できるものではなく,一人一人の人間の主観(思考と感性)がそれを決め(ようとす)る。だから,「何が普遍的かなんて客観的には決定できない。だから普遍的なものなどない(のでは?)」とする論には短絡があるのではないか。(中略)--客観的には決められない。が,主観的には確かに存在する。そしてしかも,それは主観的に決定され(ようとす)るものでありながらなおかつ,「単なる好み」と片付けられるようないわば狭義の主観的価値とも違う-- 「普遍(という語)」とは,まずはこのようなものだと考えます。(小西収)』

『私が以前言及した「普遍的価値」は、正確に言えば「絶対的価値」のことである。(前にも書いたが「普遍的な意識」とは別です。「意識」は人間の頭の中にあるが、「価値」はそれ自体(たとえばエロイカそのもの)にある。)おそらく小西さんの言われるものもそういう事だと思うのですが、「普遍」と言うと、「人類共通の意識」てなことになるのだが、「絶対的価値」のあるものは、たとえその価値を感じる者が1人しかいなくても、いや、論理的には「だれもいなくても」存在する。その概念を「宗教的」もしくは「哲学的」と言うならそれはそうでしょう。
 私は、芸術とは絶対的価値を信じ、それを探求することだと思っているのです。それは「宗教的」「哲学的」な所作だと思う。(大友一三)』

音楽の価値というものには「客観的な指標」はない。しかし、だから「良い演奏も悪い演奏もない」というのは短絡であって、やはり価値のある音楽(良い音楽)というものは厳然として存在する。それは狭義に於ける「個人的好み」とは片づけられないものだが、しかし個人が「主観的」にしか望遠しようがないもの、ともいえる。小西収は、良い音楽というものについて、ここでそんなふうに語っている。彼がここで「客観的指標」などというものはない、と断定的な主張をしているのは、この文章が「吹奏楽コンクールとその害毒」という投稿文に基づいて書かれているからである。そういうものが「ある」と信じて疑わない人、あるいはそれを「自明」だと考えているような怠惰な人々に向かって、かれはそれを「否定」してみせているのである。しかしこれは、言い換えれば「そのような態度で音楽に関与してはならない」という主張とも読める。音楽を客観的に理解し、評価し得る。そのような態度そのものが、音楽を損なっている。これは、そういう主張なのではないのだろうか。

このことは「万物価値論」を展開した大友一三の中では、もっと明瞭である。今になってみると、かつて私の吐いたあの「馬鹿げたエロイカの感想」に対して、それを笑いもせず、真剣に「羨ましい」と述べていた彼のあの言動の中に、既にこの「万物価値論」の萌芽が見られることが、よくわかる。大友一三は「価値は万物の中に内在している」という立場をとっているが、これは逆に言えば、「あらゆるものには私に理解し得ない価値が内在している」という構えをとる、という宣言でもある。それが「哲学的」「宗教的」な所作である、と述べているのはまさしく妥当なことだ。彼のいっていることは、まさしくエマニュエル・レヴィナスが述べている「あらゆるものを他者として接遇する構え」のことに他ならず、そのことをレヴィナス先生は「倫理的」と称されたのだから。レヴィナス先生は、そのように生きられなければ、「人間は人間でなくなる」とまで仰ったのである。或いは、そのようにしか生きられないものこそ「人間」に他ならないのだ、と。

九鬼先生とレヴィナス先生のお知恵に助けられて、私はどうやら「音楽を求めて」に通底している、「最も大切なこと」に近づきつつあるようだ。「無垢」ということについては、まだまだ具体的に語りたいことが、たくさんある。次回も同じ題名で、この話題を掘り下げてみようと思っている。

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