音楽を求めて 16〔大石 聡/2007.9.6〕
…ML投稿文
第16章 ある目的のために音楽を享受すること。音楽と時間について。
精神科の周辺領域で、最近「音楽療法」なるものについて、ときおり見聞きするようになった。以前、僕の勤務している病院に、イギリスで音楽療法を学んできたと称する学生から「私を使ってください」という売り込みがあったこともある。なんでも、音楽本来が持つ「癒し効果」が精神の病に有効なのだそうで、自閉症などの発達障害の子どもたちも、音楽療法を施すことで「情緒的な発達」が促進され、対人関係も好転するのだそうだ。「音楽は人の心を癒し、育てるものなのです!」といわれりゃ、僕だってそのこと自体は「ま、そりゃ、そういうこともあるかもしれませんわな」的に、軽くスルーさせて頂くだけである。
しかしちょっと引っ掛かるのは、その「音楽療法のプロ」と称する人々というのは、どのような意味において「専門的技法」を所持していると自認しており、一般人との差別化を図っているのか、という点である。だって、ただ音楽を「聴かせりゃいい」というだけなら、有線放送でも契約して、BGMとしてだらだら音楽を流しておけば済む話だからである。最近はワイン樽の酵母さんやら、養鶏場の鳥さんたちでさえ、そうやって音楽聴かされて「醸し」たり、「卵生んだり」しているような世の中なのである。まさかクラシック流しておきさえされば、子どもがすくすく「文化的」に成長して、高尚なる精神生活を送るようになってめでたしめでたし、という程おめでたい話でもないのだろう。ではいったい、彼らはどんな「専門的技法」を所持して、それを「療法」などと称しているのであろうか。
何でも聞くところに拠れば、彼らはどのような「病態」の患者に、どのような「音楽」が「適合する」のかを判定する専門家、なのだそうである。もし彼らが患者の「病態」を見抜けるのであれば、彼(彼女)は精神科医と同等の技量を有している、ということなのであろうから、音楽療法家とは精神科医の一ジャンルに他ならない、ということになる。しかし、寡聞にしてそのような精神科医の「副業」があるとは僕も聴いたことがないので(あったらそんな面白そうなことを僕が今までほおっておくはずがない)、恐らくそうではないのだろう。と、いうことは、彼らは「診断そのもの」は専門家である精神科医に任せておいて、自分たちは精神科医から「注文」を受けて、患者の病態に合わせた「音楽をセレクトする」ことを生業にしようとしているに違いない、と想像されるのであった。
ちょうど心理療法士が心理検査や箱庭・遊戯療法の「実施の専門家」であり、「強迫神経症の女子高校生なんだけど、砂は触れるみたいなんで、ひとつ箱庭療法を頼まれてくれない?」などと、精神科医である僕に頼まれて「ええ、いいですよ。」と心理療法室で箱庭に取り組んで頂けるのと同じような感じで、音楽療法家も「神経性抑うつの独身中年男性なんだけど、割と音楽は好きみたいだから、ひとつ音楽療法やってあげてくれない?」とオーダーしたならば、「ええ、もちろん。じゃ、とりあえずブラームスあたりから」とかいいつつ、患者さんをリスニングルームの体感マルチサウンド・スピーカー付きリラックス・カウチに寝かせて、おもむろにSACDをプレーヤーにセットしてくれたりするのだろうか。「リラックスしてメロディに身を委ねてくださいね。悲しくなって涙が出てきたりするかもしれませんけど、それはそれで良いですから、恥ずかしがらずに心を解放してくださいね。あ、ティッシュはここにありますから。」みたいなことも言うのかもしれない。指先にパルスオキシメーター(脈拍と末梢血の酸素飽和度を測るもの)をつけて、患者さんの様子をじっとモニターしつつ、微妙にボリュームを調整してみたり、エフェクトをかけたりなんかもいろいろやるのかもしれない。「想像」というより半ば「妄想」なんだけど、当たらずとも遠からず、という気が僕にはする。
音楽療法というのは、いわば「音楽」というものを「薬」とみなし、それを服用して病気の治療に役立てよう、という見解のことなのであろう。そこでは音楽のもつ特質のうち、「人間の疲れや悩みを解消し、子どもの情操を豊かにし、精神衛生に寄与するもの」としての価値だけが注目されている。そして、そうした効能だけから類別・整理されて、ニーズに合わせて選択され、消費されるものだと観念されている。そのような音楽との関係の持ち方もあるのだ。そこでは音楽は、ただ「享受される一定の価値を有するもの」として観念されており、それを享受する「主体」というものが「確固として存在する」ことが前提されていることになる。
それはつまり、こういうことではあるまいか。音楽を享受する確固たる「主体」というものが、まず在る。それは、音楽を享受することで「気分が良く」なったり、「リラックス」したりする。さらには、そういう特徴を上手く利用することができれば、場合によっては「病が治ったり」してしまうことさえある。このような「主体」は、音楽を享受する「前後」において、どの程度「気分が良くなったか」とか「病気が良くなったか」とかを、ある種の「基準」のもとに査定し、比較し得る程度には「同一性」を保っており、基本的には「変化しない」ものだ、と考えられている。だって音楽を聴く前後で、その人が「まったく別人になってしまう」ようなことが起きてしまうと、その音楽の「効果」について、ある種の「基準」に基づいて査定したり、類別したりすることは、全く「不可能」になってしまうからだ。音楽を享受する「主体」そのものは、あくまで確固として「固定」されており、その変化も基準に基づいて「測定する」ことが可能でなければ、音楽療法などというものは成立しない。音楽を聴く前の「どんな音楽なんだろーな、わくわく」という「私」と、音楽を聴いた後の「あー、おもしろかった。満足満足、ふふ。」という「私」の間には、ただ「時間の経過」だけがある。音楽を聴く前後には、本質的に変化しない同一の「私」があることは、そこではただ「自明のこと」とされていて、いささかの疑念も存在していないのである。
こういう「微妙な変化はあっても基本的には変質しない私」のことを、かのエマニュエル・レヴィナス先生は「同一者」と術語化されたのであった。
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「私」が変質しないまま、連綿とその「同一性」を維持し続けるとき、「時間」はその本来の意味である「未知性」について毀損され、陵辱されることになる、とレヴィナス先生は指摘された。
「同一者」は、本質的に変化しない存在である。「私=自我」は、その延長である「他我」に変化することはある。でも、その「他我」というのは「私がそうなるかもしれない私」のことなのであって、ある種の「私のヴァリエーション」に他ならない。自我から他我への変化は、本質の変化ではないのである。音楽体験とは、「私=自我」にとっては、知的に「獲得」されるものである。「私」の住む世界は、獲得した分だけ「拡大」しはするが、「私自身」はいつまでも同一平面上に留まっている。「同一者」にとっての「未来」とは、「現在」という私の立ち位置から見渡し得る同一地平上に「既に存在しているもの」だけで構成されている。それらはゆっくりと「視界にはい」り、近づくにつれて段々と「大きくなって」きて、やがてそれと「重なり合う」という具合に、いわば「空間的」に表象することができる。そのような「未来」には、本質的には「未知」のものが含まれていない。そこは、単に現在を延長した先に「まだ現在になっていない既知」が拡がっているだけの、のっぺりした閉じた空間である。遠くに見えている「既知」が近づいてきて、やがて「現在」になる、というふうに、「時間」というものが「空間的に表象」されている世界では、全ての「未来」はただ遠いばかりで、既にそこに存在しており、小さく見えているのである。それらはもうすぐ「今」になる「既定のもの」なのであって、あらゆる意味に於いてそれは「未知」では有り得ない。そこには「想像もできないもの」や、「全く未知のもの」が侵入する余地がない。そういう意味で、それは本当の意味での「未来」ではないのである。
「同一者」には、実は「未来」が存在しない。「同一者」とは「無時間モデル」に住まっているもの達なのである。
僕たちは、特に意図せず、この「同一者」として日々暮らしている。時計やカレンダーによる時間表象は、まさにこの「同一者」的視点によるものに他ならない。一年分の日めくりカレンダーは、未来の365日を、ある種の手応えのある「厚み」のようなものに変換して、実感保持可能であるかのような誤解を生じさせるものではあるが、それはもちろん真性の「未来」ではない。カレンダーは、それを「もう二度とめくることができないような事態」が到来することまでは表象できないからである。
「あーあ、毎日同じようなことばかり。このまんま年取っていっちまうのかな。なんか突拍子ないことでもおきねーかな。」とぼやいているサラリーマンは、一昨年購入した自宅のローンが完済するまでにはまだ19年と6ヶ月が必要なので、会社をやめようにも20年は我慢しないといけないわけだが、そのときにはもう54歳であって、そんな頃に転職なんかする気力も残ってるわけがないだろうから、結局定年までだらだら勤めて、あとは何とか田舎にでも移って畑なんかしながらゆったり暮らせたら良いだろうけど、そんな金銭的余裕があるかどうかが問題だよな、ふう。などと考えているわけである。このような主体が望む「突拍子無いこと」とは、何だろうか。それは例えば、いきなり自分の勤める会社がヒット商品を飛ばして上場して大企業になり、悠々自適のエグゼクティブ・サラリーマンに自分が変貌するだとか、3億円の宝くじに当たって、さらにそれを投資したら10倍にふくれあがって会社も辞めてマウイの別荘に住んで小説を書く日々を送る、といったような夢想なのであろう。しかし、そうした夢想は、決して真性の「突拍子なさ」では有り得ない。何故なら、彼の夢想には「不快な突拍子なさ」は決して含まれないからである。実際の「突拍子もないこと」とは、明日の朝刊に自分の勤める会社の不祥事がでかでかと掲載されてその3日後にははやばやと解雇されることだとか、明後日の早朝に北朝鮮からミサイルが飛来して首都の半分が破壊される(当然彼も瓦礫の下にいる)ことだとか、突如現れた未知のウイルスによって、一ヶ月後には日本の人口が半減した(当然彼も淘汰されている)だとか、そういうことも含まれているのだが、彼の無意識はそうした「不快な未来」を慎重に排除しており、それらはぜんぜん想像されることがないわけである。
彼のいう「未来」とは、基本的には「退屈な現在が延長されたもの」として観念されており、たまに夢想が入り込んでも、そこには決して不快な想像は入り込まないように周到に排除されている、というわけである。しかし、未来というものは、基本的には良いことも悪いことも含めて「不意打ち」としてしか、本来我々を訪れることがないはずのもの、である。我々が日頃漠然と「未来」だと思っているものは、単に「同一者」的主体が、「起こって欲しくないもの」だとか「起こるわけ無いもの」ものなどを、無意識的に視野から排除した「切り抜かれた世界」であるに過ぎない。僕たちが日常に飽き、未来に絶望するのは、未来が「予見可能なもの」としてその目に映じているからである。
だからこそ、ある日病院で「あなたの命はあと半年です」と告げられただけで、世界の様態は簡単に一変してしまうのである。明日死ぬかもしれない、という再帰不可能な「断絶」を意識した時、人は「未来の未知性」に一瞬手が触れる。あれほど退屈だった通勤電車から臨む車窓の、代わり映えのしない街の日常風景は「例えようもなく愛しく美しい、儚い一瞬の夢」のようなものに変化する。それをもう、明日には見ることができず、触れることもできないかもしれないと知った時、それに触れている「今」という一瞬が、濃密なリアリティを獲得するのである。その「今」を平板で生気のないものにすり替えていたのは、実はそれが「永遠に変化しない」と不当に前提している、主体の意識そのものの有り様に他ならなかったのである。同一者的主体は「自分はいつまでも滅びず、永久に今のまま変化しない」という、傲慢かつ虚しい夢を育み、未来の未知性の一撃への不安を忘却する替わりに、怠惰で退屈な、作りものの「永遠」に嵌り込んでいるのである。
レヴィナス先生はそれを指して、このような「同一者」的な主体の知性の在り方の「不毛」を説かれたのである。知性とは、未来を「予測し、わかったつもりになる」ことでは全然ない。本当の知性は、未来がまさに「一瞬先は闇」であることを知っている。それは「どうせ未来なんかわかりゃしないんだから、何やっても無駄さ」というような敗北的虚無主義でもない。そうではなく、その「未来が見通せない」という不能の覚知こそが、人間の生命の「今」の掛け替えなさを保障している、ということに目覚めてあること、それが「知性」というもの本来の有り様なのである。
未来の未知性、その「不意打ち」の不安から目を逸らすことなく、どのような未来が到来しても「それこそが私の待っていた未来である」と云うためには、人間に何が必要か。それは「予測」だとか「推計」などという賢しらな計算高い思考ではなく、むしろ「慎み深さ」だとか「倫理」である、とレヴィナス先生は述べられたのだった。「未来が見通せる」ということに安住しようとするような知性は、全てを「既知」に繰り込もうとして、必ず「時間」を毀損してしまう。その結果、己の作り出したのっぺりした閉じた世界の中で、何が起こっても「想定内です」というような台詞を繰り返すような存在に堕してしまうのである。しかし、未来は必ず、人間の賢しらを超えた「予測不可能な一撃」を送り出すことを止めない。だから「想定内の人」は「想定外の一撃」によって、もろくも一瞬にして息絶えてしまうことになるのである。かつて実際に、そのようにして、アウシュビッツの廃墟と膨大な死者の山を眼前に突きつけられて、あらゆるヨーロッパ的知性は沈黙することを強いられたのだった。レヴィナス先生は、その「虚無」から、何とか知性の再起動を図ろうとした「希有の人」である。
「私は次に何が起こるか知っている。」というような賢しらなことを述べてはならない。全てを見通せる「神の視座」の傲慢に居座るものは、その代償に「今」の生命を捨て値で売り払っている。時間が死に「見せかけの永遠」の中に嵌り込んだ者は「孤独」と「倦怠」に溺れるしかない。無用な万能感を捨て去って、つましく生きること。それは「宗教的」であったり、また「倫理的」なことのようでもあるが、実際にはそうではなく、それは純粋に「知的なこと」に過ぎないのだよ。だから、あなたの全ての「知性の有り金」をそこに投じなさい、とレヴィナス先生は諭しておられるように、僕には感じられる。
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音楽もまた、優れて時間的な芸術である。
「音楽療法」とは、音楽をただ単純に拾象して、医療に役立つ「薬」としての効能でのみ見つめようとする視点の有り様なのだろう。そのような音楽は、その「時間的」な根本要素を確実に毀損されることになる。
たとえば、専門家としての音楽療法士が「うつ状態に有効な音楽」としてブラームスの交響曲第3番の第2楽想をその知識体系に組み込んでいるとき、その音楽は「メランコリックな性格」であり「うつっぽいひとの気分にしっくりフィットする」という以外の意味を、音楽が奏される以前に、予め失ってしまっているといえる。だって、その音楽を聴く前に、音楽療法士はそれが既に「メランコリックなムードの音楽である」と「知って」おり、「気分が落ち込んでいる人が、自分の落ち込みに浸ることができる」のだと「判断」してしまっているのだから。音楽療法に於ける音楽は、予めそのように聴かれること以外の可能性を切り捨てられた地平に登録されており、それ以外の未来は、予め喪われているのである。
ある目的のために音楽を享受しようとすることとは、要するにその目的に適う以外の音楽の可能性を、予め「見ないようにしておく」ということである。ある人が、ある状態の時に、ある音楽を享受すれば、必ずそのような「効能」が得られる、と規定しているのだから、未来はそこでは「既決事項」となっているのである。予期していた音楽が、予期していたように流れ、予期していたように享受され、予期していたように満足が訪れる。そこには予定調和が存在しており、不意打ちや驚愕は存在しない。そして、それはもはや「(生きた)音楽」とは呼べないものではあるまいか、と僕は考える。
「薬としての音楽」にふさわしい演奏、とはどのようなものであるだろうか。おそらくそれは、聴感的にけばだったところのない、滑らかでスムーズな手触りがふさわしいとされることだろう。ストレスに疲れ、神経の病に悩まされている主体を癒すことが目的だと限定されているのだから、予想を裏切る激しいテンポ変更や、大胆なデフォルメ、といったことは最初から「お呼びでない」のである。
そこでもどうせ「やはり一流の演奏でなければ力がありませんから」といった賢しらなことが述べられているのに決まっているのだが(このへんはもちろん私の妄想に過ぎないのだが、経験の裏付けがある妄想展開なので、こういう妄想はまず外れないのである)、そこでいう「一流の演奏」にはカラヤンとベルリンフィルの演奏は含まれても、クナッパーツブッシュとベルリンフィルの演奏は含まれないのである。なぜかといえば、ここでいう「一流」という言葉の意味が、恣意的に狭められているからである。
同じブラームスの3番交響曲の演奏に、百を超える異種の録音が存在することは、音楽を「薬」とみなす観点からは、さほどの意味が見いだせない。正規の薬剤に対して、ジェネリック医薬品といわれる「ぞろ」の異名同成分の薬剤が発売されて、結果として薬価が著しく低下する、といった程度の市場経済的な散文的意味があるくらいであろう。ただ、薬としての演奏には「プラシーボ(偽薬)効果」というものが必然的に含まれるので、「何となく有難そうな演奏だ」というようなことを感じさせるような、ある種のオーラが必要とされているのである。それがここでいわれる「一流」という言葉が限定的に意味していることである。
クナッパーツブッシュのブラームスは、ベルリンフィルとの共演という意味で一応この「一流」の定義を一部満たしているわけだが、録音が古くてがさがさであり、かつ怪しげなレーベルの怪しげなジャケットから、怪しげな指揮者が見るからに怪しげなオーラを放っており、実際に聞いてみると異様なスローテンポにおどろおどろしい虚無的な空隙が挟まったりしていて、きいているうちに「うっとり」とか「しっとり」といったメランコリックな心情を遥かに離れて、何だか「茫然自失」な感じになってきたりするので、総計するとたちまちマイナス200点、ということになってしまうのである。カラヤンのブラームスはことごとくこの対極にあるわけだが、言い換えてみればここでいう「一流」とは、一般市場経済的価値における付加価値的オーラ、つまり「きれい」「なめらか」「ゴージャス」「立派そう」「アカデミックな感じ」などという一連の記号的意味合いを持つもの、という意味であることがわかる。
ところが、ややこしいことに、ある種のマニアックに歪んだ付加価値を求める、ごく少数の人たちにおける限定的市場においては、カラヤンとクナッパーツブッシュの立場がそっくりそのまま逆転する、というようなことも起こり得るのである。そこでは、録音は「古くてざらざらしている」方が何となくありがたみがある、といった歪んだ価値観が共有されており、指揮者は独善的で奇抜であるほど良く、一般受けしないことこそが一流の条件とされていたりする。むろんレーベルは大手メジャーであってはならず、ジャケットも怪しげであるほどに無条件的に「良い」とされている、というふうに、単に価値観の方向性だけがただ「逆転している」世界だってあるわけだ。しかし、こういうのはカラヤンとクナッパーツブッシュがただ単純に入れ替わっているだけなのであって、この二人が「質的に異なっている」から立場が入れ替わっているわけではない、という点に注意が必要だ。それは単なる「同じコインの裏表の違い」といったようなことに過ぎないのである。
いずれにせよ、そうした市場価値的オーラに従って音楽を購買し、消費する、という主体は、レヴィナス先生のおっしゃるところの「同一者」的主体であって、時間経過を無視し、己の変化を拒絶している、という点で何ら変わるところがない。だから、音楽の「質的な差異」というのは、カラヤンかクナッパーツブッシュか、という比較の中には全然「ない」のである。市場価値的オーラに従って音楽を選別し、ただ主体に快楽を与えるためにそれを消費する、という点で、カラヤンを推奨する音楽療法家も、クナッパーツブッシュに固執する自称クラシックおたくも同じく「同一者」的主体である。彼らは、実は精神の双生児のように良く似ているのである。
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音楽を「享受しよう」とする主体は、決して音楽の「質的差異」を追及しない。と、いうか、彼らの住まう無時間的な世界には、音楽の質的な相違は「入り込む余地がない」のである。音楽に感動し、揺さぶられるという体験は、主体の本質的変化を伴うので、その音楽的体験の前後に、必ず測定不能な断層(次元のずれ)が生じてしまう。そのような体験は、数値化できないし、比較することも困難だ。カタログ化できないものは、マニア的に享受することはもちろん、薬として類別し、投与することもできはしない。だから、音楽をただ消費し、享受することを望み、その自明性に疑いを入れない主体、つまりレヴィナスのいう「同一者」は、音楽の質的な相違には、原理的かつ永遠に「出会えない」のである。クナッパーツブッシュとカラヤンのブラームスに同時に触れていながら、彼らにはその質的な差異は見えないよう、予め構造化されている。それは、ある意味「絶望的な事実」なのだが、当の本人はそれに気付くはずもないので、絶望することすら出来ないのである。
「生きる」ということは本来、どうしようもなく時間的なことである。一年歳をとるということは、一年前の「私」はいなくなり、別人である「私」が生成することである。ただ人間の自我同一性が、かろうじてそこに「変わらない私」という幻想を架橋しているのに過ぎない。その幻想が無用なものだとは、私は言わない。人間は、そういう幻想がなくてはやっていけないのだから、それはそれでよいのである。しかし、それが「幻想」であるという事実は、どこか心の片隅に置いて忘れない方がいい。
芸術が人間にとって必要とされるのは、芸術に触れたその一瞬、普段人間がそこに安らいで疑いもしない「私の不変性」という仮構が、あかあかと照らし出されて、がらがらと音を立てれて崩れてゆく経験ができるからである。人間は、その快感を一度体験してしまうと、「また別の私になる」ことを繰り返さずにいられない。なぜなら「変化すること」こそが、生物の「本質」だからである。それは、まさに「種の進化」の過程のことでもある。どのように変化するかを「規定」することは、生物自身には出来ない。生物はただただ変化を繰り返して、「未知なるもの」に進化してゆくしかないのである。そういう意味で、人間の「成長」とは「進化」の小さなステップなのであって、それは優れて時間的な現象に他ならないのである。
音楽体験とは、それに触れることで「それに触れる前の私」には戻ることができなくなるという「時間性」にこそ、おそらくその本質があるのだろう。音楽に「感動」することは優れて時間的な現象なのであって、それは「測定」されたり、「比較」されたりすることを、厳しく拒み、受け付けないであろう。真に音楽を体験し、感動に揺さぶられた瞬間、人は「同一者」であることを辞めざるを得なくなる。地平が揺り動かされ、地軸が変われば、そこから「見える景色」はがらりと変わってしまう。私の目に映っているものは決してぼんやりした「未来」などではなく、一度喪われてしまえばもう二度と触れることもできない、掛け替えのない「今」に他ならないのである。だからこそ「今流れている音楽」のその一回性が、限りなく儚く、貴重なものとして「私」に感得せられるのである。その音楽が終わった時、もうその「私だった存在」は、そこにはいない。音楽を聴くということは、そのようにして限りない「私の変容」を追い求める「旅」に出ることである。
僕たちがやがて、そのような「旅」に疲れたとき、僕たちは再び「音楽」を手に取ることだろう。かつて僕たちを激しく揺さぶり、僕たち自身を「旅」に駆り立てたその音楽は、今度は限りなく優しく、私たちを「癒して」くれることだろう。しかし、その音楽による「癒し」とは、「音楽療法」というような小賢しく貧しい概念には、到底包括しきれないのではないか、と僕は疑うのだが、さて、いかがであろうか?
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