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音楽を求めて 14〔大石 聡/2006.2.18〕

…ML投稿文 

第14章 音楽を享受することについて。良い演奏だと感ずるということ。

前回、前々回と、主に奏者が「演奏する」という行為について、その意志するところばかりではなく、「無意識なるもの」が如何に関与しているか、という切り口から、様々なことを考察してきた。音楽を演奏するということは、ある種の「コミュニケーション」をすることに他ならない。音楽は「対話」であり、「語らい」でもある。だからこそ、そこには対話を行う人と人との「対人関係の有り様」が致命的な影響を及ぼすのである。我々が「互いにどのように存在し合うのか」ということは、殆どそのまんま、我々がどのように「アンサンブルするのか」ということと同じである。そのようなことについて、主にジャック・ラカンの知見を援用しながら主張したのだった。

今回は、演奏には直接関与しない「聴衆」というものの有り様について、考えてみることにしたい。聴衆として音楽を「享受する」とは、どのようなことであるのか。それを「良い演奏」だと僕が感ずるとき、僕にどのようなことが起こっているのか。その認識の有り様について、やはりラカンの助けを借りながら述べていってみたい。

聴衆は、ただそこに「居て」、黙って音楽に「耳を傾けて」いるだけである。聴衆は、直接「演奏行為」そのものには参加しない。しかし、それにも関わらず、音楽の生成には「聴衆の存在」が深く影響しているのであった。それは、音楽というものが、人と人との間に成立する「語らい」、すなわち「コミュニケーション」に他ならないからである。第7回のフロイントの演奏会に寄せた文章の中で、僕は聴衆についてこんな風に語っている。少し長くなるが、引用してみよう。

『音楽を成立させている要素について考えるとき、多くの人は「音楽作品」と「演奏者」について思い浮かべている。しかし、実際には、作品の制作にも、その演奏にも関与せずに、ただ音楽に耳を傾けている「聴衆」がいることは、失念されがちである。もちろん、純粋な意味での「聴く人=聴衆」は、必ずしも音楽の成立に必要であるわけではない。演奏者が同時に「聴衆」を兼ねることが可能であるからである。しかし、改めて「音楽」そのものの成立する要素を考えるとき、その生成に「聴衆」が関与しないことは、原理上あり得ない。』

『楽譜を前に、あなたが独りでギターを弾く。そこに「音楽」が生成し、あなた自身がそれを演奏しつつ、同時に「聴衆」として演奏を享受することで、音楽は一応の完結を見る。しかし今、ここに「私、ここで聴いていてもいい?」という人物が現れたとする。「いいよ。聴いてくれるかい?」とあなたは応じる。そしてギターを構え直し、あらためて純粋な「聴衆」として現れたその人に向かって、今弾いていたその曲を演奏し始める。同じ作品を、同じ技量と感性をもつその奏者が、ほぼ時間的にも環境的にもかわらない状況下で演奏しているにもかかわらず、その「演奏」は、つい先ほど生成した「演奏」と全く違っている。リズムもテンポも、作品解釈も変化していない。にもかかわらず、その演奏は「変わって」しまったのである。それは、音楽の生成に「聴衆」が参加したからである。』

『フロイントは常々、自らが演奏しつつ、その演奏を享受する「聴衆」として音楽を生成し続けている。演奏する喜びは、同時にその演奏を享受することで満たされている。しかし、時には「誰かに向けて演奏してみたい」という欲求が生じることがある。演奏に参加しない、純粋なる「聴衆」としての誰かがそこに居て、音楽の生成に関与してくれることで、フロイントの奏でる音楽が変化することを、我々は良く知っているのである。どのような変化が起きるのか、それは演奏しているフロイントの面々にもわからない。どのような聴衆が集まり、どのように音楽を享受してくれるかによって、生成する音楽はおそらくどのようにも変貌するのであろうから。』

聴衆には、様々な形態が有り得る。演奏者は演奏行為を行う「主体」であるのと同時に、生成したその音楽を「享受」する聴衆を「兼ねて」いる。指揮者も、その生成に寄与するものでありながら、奏者にとっては先ずは第一番目の「聴衆」と見なされていることも、前回指摘した通りである。自分一人で演奏を行っていてさえ、それを「享受」する「自分」という聴衆が「いる」。何故なら、演奏行為とは、人が人に向かって行う「コミュニケーション」に他ならないからである。そういう意味に於いて、音楽の生成に聴衆が「関与しない」などということは、「原理的にあり得ない」のである。

しかし今回は、そのような奏者も兼ね得る「原理としての聴衆」ではなく、純粋に、演奏行為に関与しないで「ただそこに居て耳を傾けている」、いわば「純粋なる聴衆」について、考察してゆくことにしたい。

黙って「語らい」に耳を傾けること。それが「語らい」というものに、どのような「影響」を与え得るのか。ジャック・ラカンが、それを我々に教えてくれたのだった。

ラカンは「黙って座っていること」が、何よりも「語らい」を生成するのに必要であることを熟知していた精神科医であった。彼はただ、黙って患者の話を「聞いているだけ」で、「解釈」という形の介入を好まなかった。フロイト直系の弟子達は、分析場面において大切なことは患者の無意識を「暴き出す」ことであり、それを「解釈」として「抵抗」する患者に突きつけることだと主張して憚らなかったが、ラカンはそれを一笑に付して、一顧だにしなかった。フロイト流の定時分析にも彼はこだわらず、積極的にショート・セッションを導入した。時にはただ会釈し、握手するだけで診察が終了することさえあったという。ラカンはそこでどのような「語らい」が生じたのか、ということだけを常に問題にした。だから、お互いに顔を見合わせて「にっこり」して、セッションが終わることもあったのである。

僕が師と仰いでいるユングは、ラカンと違って「黙って座っている」精神科医ではなかったが、ユングもまた「抵抗」や「解釈」と無縁な治療を展開していた。診察では、一見治療と何の関係もない「世間話のようなもの」が気ままに展開される。日常のあれこれがあまりにも「とりとめなく」語られるので、話はあちらへ飛び、こちらへ彷徨い、といった具合に散乱してゆく。しかし、ユングはそのような「とりとめのないもの」の裡に視点を置き、それを患者の内面に固定しないのである。それは何というか「ぼうっと」した目つきである。患者を取り巻いている「状況」や、患者を押し流している「時間の流れ」といったものを、「見るともなく」彼は見ているのである。そのような特異な視点を得ると、どのようなケースの背後にも「良くあるストーリー」が浮かび上がってくる、とユングは言う。ユングはそれを「解釈」しないし、実際的な助言のようなこともしない。彼はただじっと話を聞きながら、状況がとある「配置(コンステレーション)」を取るのを待ち続ける。そして、ふとした状況の変化を捉えて「あ、それは良いですな。是非おやりなさい。」などとスパッと切り込んで、患者の背中を押したりするのである。すると、偶然としか思えないようなことが必ず共鳴して起こり(そのような偶然の連なりをユングは「共時性(シンクロシニティ)」と呼ぶ。それによっていつもユングの理論はオカルト扱いされるのだが、それはいささか短見というものである。)、患者は嘘のように「膠着した状況の外」へ放り出されている、といった具合なのである。

ラカンもユングも、フロイトのいう「無意識なるもの」が診察場面に立ち現れてくるためには、そこに「黙って座っている聞き手」やら「何でもない日常会話」やら「ぼんやりした目つき」といったものが必要なのだということを、充分に知っていたに違いない。フロイト自身もその為に、寝椅子(カウチベット)を用意して患者を横たわらせ、その枕元に(患者からは見えないようにして)座りさえしたのである。散髪屋の座席を寝かせて髭を当たってもらっている場面を想像してもらえばわかるが、これは「何かをふと喋りたくなる」状況である。為す術もなく委ねている感じや、それでいてくつろいだ感じ、手を触れてもらって親密なコンタクトが成立している感じ、などが無意識を刺激するのであろう。昔から、髪結いには人は「秘密を喋るもの」と相場は決まっているのである。

要するに、彼らのそうした態度や知恵というものは、患者との「語らい」に「無意識なるもの」を呼び込むための、一つの必然的な「手続き」に他ならないのである。「さあ、あなたの悩みを話してご覧なさい」などと(いくら真剣だとはいえ)鼻息も荒く迫られたりしては、患者だって困ってしまうのである。むしろ「本当に大切なこと」というのは、そのようにいたずらに目をつり上げて「真剣に」緊迫しようとすることによってではなく、対話が自然な「親密さ」を増し、そこにくつろいだ流れが感じられるようになってきた時に、偶然のようにして「そういえば」だとか「ふと思い出したんですが」という風に、語り出されるものなのである。

このように考えてみると、音楽という「語らい」に於いても、ただ「黙って座っている聴き手」という存在が、演奏に深く「無意識なるもの」を呼び込んでいることが推測できよう。聴衆とはそのようにして音楽というコミュニケーションに「参加する者」であり、演奏には直接関与しないまま、その「生成」に「寄与する者」なのである。

考えてみれば音楽の生成する場面に、このような意味での純粋なる「聴衆」が出現したのは、さほど遠い昔のことではなかった。西洋の音楽は「教会」や「宮廷」に於いて主に発展してきたわけだが、教会に於ける「聴き手」とは、人ならぬ「神」に他ならなかったのであるし、王や貴族達は自らの教養として音楽を嗜む「プレイヤー」であることが多かった。そうでなければ音楽を自分の「装身具」や、宮廷の「装飾品」扱いしていることも多かったろう。そこでの音楽は同時に「式典」や「祭典」としての意味合いを担っていた。もちろん、そこでの音楽もまた「神」や「王の栄光」といった人ならぬものとのコミュニケーションではあったのだろう。しかしそれは、人と人との親密なコミュニケーションとは少し次元が違うものだったのではないだろうか。

ただ音楽という語らいを「享受する」存在、すなわち「ただそこに居て耳を傾けている」ような「純粋なる聴衆」が出現したのは、革命が起きて「市民」なるものが出現し、公開演奏会が開かれるようになった「近世以降」ということになるだろうか。演奏家が、ただ「聴衆のため」に演奏する、というシチュエーションは、おそらくその頃初めて存在するようになったのである。そして、そのような時代の流れに合わせて「ロマン派音楽」が興隆し、指揮者が統率する「オーケストラ」という演奏形態が確立してゆく。そしてあの「巨匠達の時代」がやってくるのである。今日われわれが想像する、芸術活動としてのオーケストラ演奏と、コンサート・ホールに於けるその享受のスタイルは、そのようにしてできあがってきたのだと思われる。

では、このような「聴衆」にとって、彼らが欲求する「コミュニケーション」とは、一体どのようなものだろうか。彼らが「享受したい」と考えるコミュニケーションの有り様が明らかになれば、それが即ち聴衆にとっての「良い演奏」と呼べるものなのであろう。聴衆に向かって演奏する限り、指揮者や奏者たちにとっての「良い演奏」も、それと無関係ではあり得ない。だから、今回は聴衆の視点に立って、音楽というコミュニケーションの「良い」有り様について、細かく見てゆくことにしよう。

コミュニケーションとは、ただ「言葉を交わす」ことではもちろん、ない。コミュニケーションという言葉は、現代では「言葉を交わし合うこと」すなわち「情報を交換すること」「知識を与え合うこと」であると単純に見なされているようなところがある。ご近所のコミュニケーション不足が問題だ、といわれれば「回覧板」が配られて情報が共有され、歓談するための「集会」が企画される。親子のコミュニケーション不足が叫ばれれば、食卓を囲んで「何か意味のあることを喋り合わねば」と強迫的に考える。しかし、それはコミュニケーションというものについて、いささか「思い違い」をしているのではあるまいか。例えばあなたにとって、最も「満足度の高い」コミュニケーションというものを想像してみて頂きたい。それはおそらく、何と言うことはない「たわいのない会話」なのではないだろうか。母親と赤ちゃんの「片言による会話」などはどうであろうか。幸せに満ちたその会話が、有意な「情報の交換」などであり得るだろうか。はたまた「恋人同士の親密な会話」といったものは、どうであろうか。場面はえーと、どこぞの展望台とでもいうことにしようか。

「わぁ、凄い景色だねー!!」「おお、ホントに凄いなぁ。」「ねぇねぇ、ほら、あんなに遠くまで見えてるよ。」「ああ、ホントだ。あんなところまで。」「あー、めちゃくちゃ気持ちいいね。」「うん、サイコーに気持ちいいなぁ。」「やっと、ここまで来れたんだもんねぇ。」「ああ、やっと来たんだな。」「・・・誰もいないね。」「うん・・・二人だけだな。誰もいない。」

と、どこまで行っても「きりがない」のでこの辺でやめにしておくが、親密なコミュニケーションとはこのように、殆ど有意の「情報の交換」を含まず、ただお互いの語尾を「確認」して「繰り返し合う」ような、傍目には「不毛な会話」であるものなのである。しかし、いうまでもないことだが、このようなコミュニケーションこそが最も当人達にとって「満足度の高い」コミュニケーションに他ならないのである。何故か。

それは、コミュニケーションの本質が「呼びかけ」であるからである。相手と通じ合っていることを確認する「呼びかけ」と、それへの「応答」。「通じていること」こそがコミュニケーションの本義なのである。だとすれば、それが「意味のやりとり」である必要は全然なく、むしろ「有意の意味を含まない」場合の方が、よりコミュニケーションとしては「純度が高い」のではないだろうか。そうした意味で、コミュニケーションの基本となる「呼びかけ」の原初的形態とは、多分「ヤッホー」或いは「もしもし」といったものであるのだろう。それに対する応答としてもっとも適切であるのは、相手の言葉を「そのまま繰り返す」ことである。なぜなら、それが「ちゃんと聞こえたよ」ということを相手に伝えるための、最もシンプルで有効な方法だからである。だからこそ赤ん坊は言葉を獲得するとき、まずは相手の言葉を「オウム返し」するようになるのである。同じ言葉を延々と繰り返し合いながら、そのとき母子はまさに「至福のコミュニケーション」に浸っているのである。

さらには、コミュニケーションとは「言葉」である必要もない。側にいて、黙ってその「息遣い」を感じていることもコミュニケーションであるし、抱き合って「ぬくもりを感じ取る」ことも、またコミュニケーションであるだろう。我々は、自分自身がそこにただ「存在すること」によって、相手がそれを非言語的な感覚で鋭敏に「感知」し、結果としてそれに「影響」され、「変化」していく有り様そのものを、心底「欲して」いるのである。我々が恋人を抱き寄せるのは、ただ即物的に「相手の身体」を求めているからではない。互いが互いの存在を間近に感じて次第に「鼓動が高ま」り、また「息遣いが乱れ」ることを、つまり互いの存在に「影響」され、「変化」する有り様をこそ「欲求している」のである。コミュニケーションとはそのように、自身の存在が相手に影響を「与えずにはおかない」ことであり、結果として互いに「身をよじる」ことである。我々が「音楽」というコミュニケーションに求めるものも、またそのような「相互影響/確認」であるに相違ない。

ただじっと「目を凝らし」て、息を詰めて「見つめる」といった無言のコミュニケーションが、例え言葉を発しなくても相手に「影響する」ということの一つの例を挙げてみようか。

日本酒をこよなく愛している僕は、太田和彦という粋人を勝手に「酒の師匠」と仰いでいるのであるが、この人が「バーに於いて旨い酒を呑むための作法」について面白いことを語っている。彼が言うにはバーでは先ず、その店の主であるチーフ・バーテンダーが「シェイカーを振るポジション」を素早く見定めて、その「真ん前」に座を占めるのが「肝要」なのだという。そして、タイミングを見計らってチーフ・バーテンダーに合図し、好みのカクテルを告げる。そして「かしこまりました」という受けの言葉が発せられたら、もう「片時たりとも」その仕草から「目を離してはならない」のだという。その一挙一動のどんな微細な一瞬も見逃すまいと、じっと「目を凝らし」て、ショットを切る瞬間を見つめる。シェイカーのリズミックな上下をじっと「気合いを込めて」観察する。カクテルグラスに注がれたそれが、テーブルを滑るように目の前にやってきて「どうぞ」と声をかけられても、グラスから目を逸らさない。スッと手にとり、そのまま口に含むのである。そのように「黙って見つめる」ことがバーテンダーに確実に「伝わ」り、そのカクテルを「こよなく旨く」変化させるのだという。僕の経験から言っても、彼の言う作法は「ほんもの」であると感じられる。黙って見つめる客の「無言のコミュニケーション」が、バーテンダーの仕事に影響を及ぼす有り様が、手に取るようにわかる話ではないか。

このことと反対に、我々がその場に於いて「居ようが居まいが」なんの関係もなく語られるような「語らい」は、我々に何の満足ももたらさないということを指摘することができるだろう。それは「応答を求めていない」という点で、既に「コミュニケーション」とは呼べないものなのである。そのような一方的で、応答を封じられた疑似コミュニケーションとしての「語らい」を向けられることで、我々は満足を得られないどころか、ひどく「傷つけ」られてしまうことさえあるのである。

あなたの記憶にもないだろうか。学校の朝礼に於いて、校長が朝礼台の上から生徒に向かって得々と語りかけるような「今朝の朝刊に載っていたちょっと良い話」に、朝っぱらから心底「うんざり」させられたことが。校長のその話は、決して生徒の一人である「あなた」に向けて発せられたコミュニケーションではない。あなたがそこに「居ようが居まい」が、皆がそれを「聴いていようがいまい」が、まったく「同じように語られる話」というものは、それを向けられた人をジワジワと「蝕む」ようにして疲弊させる。結婚式に招かれた某市会議員の「三つの袋の話」は、如何に流暢であっても我々の関心を引き起こさない。それは、その場にいる新郎新婦に向けられたものなどではなく、どうせいつもの「同じ話」であるに決まっているからである。ファミリー・レストランのウェイトレスが、メニューを差し出しながら棒読みしてみせる「本日のお勧め」もまた、コミュニケーションの範疇に含まれないものである。うつろな目で客を見ず、客がどのように感じていようと一言一句マニュアルに違わず語られるその「同じ話」に、あなたはぞっとさせられたことがないだろうか。

僕たちは、そのようなとき「もう、わかった」と口にするのである。語らいというコミュニケーションの場に於いて「わかった」と相手に告げることは、決して好意的な意図の贈与を意味しない。それは、むしろ「もうわかったから、黙れ」という意味を言外に含んでいるのであり、コミュニケーションの「断絶」を示唆する言葉だからである。男女の関係に於いて「あなたのことが、本当によくわかったわ」という言葉が告げられる時というのは、その関係が「破局」するときに他ならない。その逆に、男女の関係が「開始」するときに告げられる言葉は「もっとあなたのことが知りたい」である。

音楽というコミュニケーションは、そのような聴衆の「もっと知りたい」という欲求によってこそ「起動」されるのである。着席してオーケストラを待ちわび、その登場をいち早く拍手をもって迎え「さぁ、わたしに音楽を聴かせて」と、聴衆は無言のうちに彼らの「期待」を告げてくるのである。だから、演奏はそれに応えて、他ならぬ眼前の聴衆に向けて、まっすぐに発せられる「コミュニケーション」でなければならない。そして、それを聴き終えた後、聴衆に「ああ、もっと聴かせて欲しい」と言わせるような、そのようなコミュニケーションであらねばならないのである。

聴衆は思い思いに期待を抱いて演奏を待つ。しかし聴衆が求めるのは正確には「予期していたような演奏」ではない。勿論ベートーヴェンの3番交響曲を聴きに来たのだから、それと「違う音楽」が奏されても困ってしまうのだが、だからといってそれが「まったく思った通りのエロイカ」であっては、本当は「期待はずれ」なのである。さらには、それが虚ろな目で早口に語る「ファミリー・レストランの店員」の口調で奏されたりしては、聴衆は深く傷ついてしまうことだろう。その演奏は「聴衆に向かって」語られていないことが「明白」だからである。また、いくら「スマート」で「流暢」ではあっても、それが結婚式場に於ける某市会議員の「三つのお袋の話」のように「手垢に汚れた」語らいであってはまったく「興ざめ」だろうし、校長の朝の訓話のような「そりゃあんたの言うことは正しいのかもしれんけど、だからどうしたんだ」としか、言いようのない語らいであっては、聴衆はそれこそ「ぐったり」疲弊させられてしまうのに相違ないのである。

概ねコミュニケーションに於いて、「早口で矢継ぎ早」であったり、「スマート」かつ「流暢」に感じられるものというのは、「相手に向けられていない」可能性が比較的高いと言える。つまりそれは、本当の意味での「コミュニケーション」ではないのである。結婚式で市会議員が「三つのお袋の話」を流暢に語るのは、それが「ストックフレーズ」ばかりで構成されているからである。ファミリー・レストランの店員が早口にまくし立てるのは、それがマニュアルに書いてある「他人の言葉」だからである。朝礼台に於ける校長が得々と滑らかな口調であるのは、それが今朝の朝刊に載っていた「他人の台詞」であるからに他ならない。そのように一言一句までそっくりそのまま記憶された「他人の言葉」を「吐き戻すように」発声するからこそ、それは「早口で矢継ぎ早」に繰り出され得るのであり、「スマート」かつ「流暢」に聞こえるのである。むしろ「自分の台詞」で語ろうとすると、それは「訥弁」にならざるを得ないはずなのである。きっと、そのような時には話は「行きつ戻りつ」することだろう。言い回しを変え、少し黙り込み、またおずおずと言葉は「選び出され」て差し出される。そのような「言い回し」で語られるものこそが、実はたいてい真の意味で「コミュニケーション」を意図したものに他ならないのである。

聴衆の期待する語らい、それはそのように、訥弁でありながら真のコミュニケーションであるような演奏である。それは「私の知っているあのエロイカ」でありながら、いつものエロイカの演奏とは少し違った、微妙に期待を裏切る「エロイカ」であって欲しい。何故なら、我々はそれを聴いて「もうわかった」とは言いたくないからである。むしろそれは「?」と疑問が残るような演奏であったり、「!」と驚きに震える演奏であって欲しい。その意味で、演奏というコミュニケーションに於いては、それが「正しい」ことや「整っていること」自体は、何ら「寄与することがない」のである。むしろ「どこか破綻していること」や「わけのわからないこと」は、更なるコミュニケーションを起動させる可能性があるといえる。その演奏が完全には(もしくは全く)わからないと感じるときにこそ、我々は「ねぇ、お願い。もっと聴かせて」と告げることができるのである。コミュニケーションは、そのようにして「循環」し、「継続」するのではないだろうか。

さて、コミュニケーションというものについてこのようにつらつら考えてみると、聴衆にとっての「良い演奏」とは何か、ということが朧気に見えてきたようでもある。

聴衆の欲望している音楽。それは「私に向けられたコミュニケーション」であることが、明白であるような音楽なのであり、「私がそこに存在することによって変容し、生成した」ことが、手に取るように感ぜられるような音楽である。そのようなものに触れたとき、我々は「コミュニケーションの成立」を感じ、音楽生成へ「参加」できたということを、強く印象づけられるのではないだろうか。

音楽が「私に向けられている」ということが強く感じられるのは、どのような場合だろうか?

その一つの例は、オーケストラに「緊張」や「高揚」が存在していることが感じとれるような瞬間なのではないか、と僕には思われる。奏者達の真剣な眼差しや、引き締まった表情は、客を前にして舞台に立つ者の「精神的集中」をありありと伝えてくる。その様子を見て、我々は「自分が聴衆としてそこに居ること」を逆説的に思い知らされるのではないだろうか。その逆は、オーケストラに「怠惰」や「生気のない感じ」が散見される場合であろう。何も緊張していれば良いという訳ではないし、「リラックス」していても構わない訳なのだが、ここで指摘しているものはリラックスとは種類の違う「ゆるみ」のようなものである。悪い意味で「プロずれ」したかのような「場慣れ」とでも言おうか、要するに演奏することに一種の「麻痺」が起こっており、「お仕事気分」が支配しているのである。そのようなものが伝わってくるとき、聴衆は演奏が自分から乖離し、「自分の存在がどうでも良くなった感じ」を味わって、コミュニケーションからの「疎外感」を感ずるのではないだろうか。

また、オーケストラが本当のコミュニケーションを志しているとき、その音楽はどのような意味に於いても「朴訥」にならざるを得ない。「他人の言葉」を吐き出すようになぞるのでなければ、どうやってもその語らいは「スマート」にも「滑らか」にもならないはずなのである。つっかえたり、力んだり、迷ったりしながら「語らう」とき、やはりオーケストラは「緊張」し「高揚」することだろう。そうした意味に於いても、「綺麗な演奏」や「取り澄ました演奏」といったもの、あるいは「立派な演奏」「派手な演奏」といったものは、本当の意味でのコミュニケーションを志向していないに違いない。だからこそ、それらの演奏は「綺麗」であり「立派」であるのではないか。それらは「正しいこと」を自閉的に志向しており、聴衆へはチャンネルを開いていないのである。そのような時、聴衆はそれらの立派で美しい演奏を前に、演奏から阻害されて「孤独」の裡に取り残されてしまうのではないだろうか。

コミュニケーションへ参加する感覚は、何も「演奏者と聴衆」の間に直接的に生ずるとばかりは限らない。演奏が何か「無限なるもの」へ開かれ、そこへのコミュニケーションの回路が「開いた」と感ぜられるようなとき、聴衆はそのコミュニケーションへの「参加」を許されたかのように感ずることがある。優れた演奏に於いて、あたかも「神に出会った」かのような感じを受けるときがあるが、そのような時、聴衆は演奏者と「無限なるもの」とのコミュニケーションに「参入」しているのである。

僕はかつて一度だけ、朝比奈隆が大阪フィルハーモニーを指揮した演奏会でチャイコフスキーの「悲愴」を客席で聴いていて、このような「凄まじい交感」に巻き込まれたことがある。大フィルというのはあまり褒められたオーケストラではなく、ときどきまさに「プロずれ」した「お仕事気分」のいい加減な演奏をすることがあるのだが、この日はのっけから気合い充分だった。もっとも、その日の朝比奈の表情を見ていたら、そのような「だらけた気分」も吹っ飛んでしまったのかも知れない。いつもの朝比奈にも増してスローなテンポで始まり、冒頭から「異様な雰囲気」であったのだが、フォルティッシモから第一楽章の後半にはいると、ザ・シンフォニーホールの空気が一気に入れ替わったかに思われた。何しろものが「悲愴」であるから、立ち現れた異世界は「神」ではなく「地獄」である。ほとんど楽音と言うより「地鳴り」のような低減の音がして、僕は思わず二階席が崩落しそうな気分になって手すりにしがみついたものである。演奏が終了したときには、殆ど放心状態だった。

今でもありありと思い出すのだが、帰りの車の中で友人がラジオのスイッチを入れ、何かの曲が流れ出した途端、僕は強烈な「吐き気」に襲われた。体中の細胞が悲鳴を上げてその「音楽」を拒否していた。あの「悲愴」を聴いた後では、いかような音楽も「身体が受け付けない」ように、細胞レベルで「入れ替わってしまった」かのようだった。発熱前の悪寒のように体を震わせながら、僕はチャイコフスキーという人間が、どのような地獄のうちに沈んでいったのかを想像して、ほとんど目の前が真っ暗になった。それほど、その音楽体験は「強烈」だったのである。

このように、優れた演奏は「人智を越えたもの」を掴みだして、異世界への扉を開くかのように思われることがあり、聴衆は演奏家と共に、そのような「無限なるもの」とのコミュニケーションに参入を許されることがある。これは演奏者と聴衆の間に「直接」生じるようなレベルのコミュニケーションではないが、それを一段越えた、深い満足感を与えるコミュニケーションと呼ぶことができるのではないだろうか。

「良い演奏」とは、このように「優れたコミュニケーション」を体感させるものであり、常に「予想を裏切る」ものであって、「?」や「!」といった不可解さをどこかに必ず残しているものである。それは時には「細胞レベルでの生まれ変わり」とでも言うより他無いような、大きな「変容」を強制させられる体験ですら有り得る。そして、それはそのように「わからない」という範疇に留まることによって、「もっと聴かせて」というコミュニケーションの「再起動」を保証してくれるような演奏なのである。

僕にとっての「良い演奏」の原体験が、小西収の指揮した「シベリウスの2番交響曲」だったことは、既に述べた。それは、もちろん僕の「予想だにできない」ような代物だったし、それが「何であるか」ということを、簡単に理解することを拒絶するような不可解なものだった。それは僕という人間に、まさに「細胞レベルでの生まれ変わり」を強制した。その「変容」が何であったのか、それは何をするように僕に「強いた」のか。それは「フロイント」を見つめることに拠ってしか、明らかに仕様がないような事柄である。フロイントは僕にとってはその体験を具現し、今も変貌しつつある「生きた証人」に他ならない。「良い演奏を求めて」に於ける僕自身の語らいを、もう一度ここに召還してみる。

『しかし、僕がなにより驚いたのは、その時はじめてみたその指揮者の、驚くばかりの激しい動きだった。百人からいるそれらのすさまじい形相の人々の前に一人立ち、臆するどころかその人物は圧倒的な存在感を放っていた。鼻息も荒く棒を振り回し、大声で「フォルテ!」とか「遅い!」とか怒鳴り声をあげ、思い通りの音が出たといっては嬉しそうに身をよじり、思った通りに行かないといってはまた身をよじり、しかしその欲するところの音楽は、余すところなくその奇妙な「踊り」に表現されていて、それが実際にオケに伝わって音として放たれているありさまは、僕の目を引きつけて離さなかった。そのたった一時間にも満たない体験が、僕の耳栓を吹き飛ばした。交響曲が何故それだけの長さと楽章を持ち、その中に作曲者は何を込め、そこから演奏家が何を読み取って表現しようとしているのか、すべてがしっくり感じられるようになった。大抵のロマン派の交響曲や管弦楽曲には耳が反応するようになり、その反応するということ自体が楽しくて、必死に曲を聴き漁るようになった。演奏の良し悪しも簡単だった。全てあの体験をもとに「それより良い」か「それより悪い」かを判断すれば良かったからだ。この体験が僕のクラシック音楽的人生の原点である。その指揮者というのがつまり小西さんなのであって、その体験の延長線上に、このアンサンブル・フロイントはあるわけだ。』

良い演奏とは、このように人を「後戻りすることができない」ところへ押し流すインパクト「そのもの」である。その演奏を「経験する」ことによって、その演奏を「聴く以前の自分」には、もう二度と戻れなくなってしまうような演奏。それが、本当に力のある演奏の「正体」である。聴衆として、ある演奏を「享受すること」とは、知らなかった誰かと「出会うこと」と、同じことである。その人と出会うことによって、その人と「出会う前の自分」には戻れなくなってしまうこと。それが、その人との間に「本当のコミュニケーション」が成立したことの、かけがえのない「証」なのである。

今回は「聴衆」というものの立場から、演奏を「享受する」こと。そして、その演奏が「良い演奏である」というのは、いったいどのようなことであるのか。それらのことについて「コミュニケーション」というものの本質を考察しつつ、考えてみた。

音楽について、ここまで随分多弁に語ってきたような気がする。

小西収という存在に発して、「指揮」というものが何であるか、「指揮者である」ということや、「指揮者になる」ということについて。さらに指揮者が作品と「向かい合う」ということ、その内在した作品に基づいて「指揮する」こと。翻って奏者から指揮を「見つめる」ということ、奏者同士が「アンサンブルする」ということについて。そして、聴衆が音楽を「享受する」ということに至るまで、オーケストラ演奏というものについて、一通りを概観してきたことになるのだろうか。

そして今、僕は少しホッとしている。

この語らいを開始する以前に「何とかして言葉に紡ぎたい」と考えていたことが、これでともかく「一つの形を為した」ような気がしているからである。未だ、語り残していることも、いくつかはある。しかし、それでも思いのうちの主たる部分については、何とか紡ぎ出したような、そんな気がしている。

そういうわけで、次回は少し一息ついてブレイク、としようと思っている。自分で自分の書いたものを読み返してみて、ようやく理解できたことについて少し散漫に語ってみようかと思っている。では、また。

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>> 第15章へ続く

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