アンサンブル・フロイント
TOP
NEWS
フロイントって何ですのん
フロイントQ&A
指揮者・小西 収
インサイド・フロイント
活動予定
団員募集
コンサート
DISCOGRAPHY
リンク
インサイド・フロイント

音楽を求めて 13〔大石 聡/2006.2.9〕

…ML投稿文 

第13章 合奏するということ。奏者から指揮者を仰ぎ見るということ。

前回は、音楽演奏が「生成」するときに、どのように「無意識」というものが関与するのかということを、ラカンの知見を元に考察したのだった。

ラカンの知見に拠れば、「語らい」は「前未来形(未来完了形)で語られる」「他者の欲望を、欲望しつつ語られる」という形で無意識を呼び込んでおり、「語り損なう」という結果を来すことによって、そこに予期せぬ生命力が立ち上るのであった。音楽演奏に於いても「語らい」と同様に、主体的な演奏行為の裡に「無意識なるもの」が介在してそこに「予期せぬ生命力」を吹き込んでいること。音楽を演奏する際に「私は(自分の目指す)完璧な演奏が何であるのか知っている」と信憑し、その一点へ意志の力によって収斂しようとするとき、演奏行為から「無意識なるもの」は排除されてしまうこと。だから、そのように全てを知り、意識しつつ意志の力で「コントロールし得る」と見なすことそのものが「誤り」なのであり、そのように思考することによって「肝心なもの」が音楽から汲み出されなくなる、ということを主張したのだった。

今回は、オーケストラ演奏というものに立ち戻って見ようと思う。そして、「奏者の立場」からその演奏に於ける「音楽生成」の有り様について、やはり「無意識的なものの働きの重要さ」を中心として探ってゆくことにしたい。

オーケストラという演奏行為の形態に於いて、奏者は常に指揮者という存在に「遅延」する立場に置かれている。或いは、奏者は常に「指揮者が欲求する音楽」を「欲求する」ように強いられている、と言い換えても良い。それは、指揮者という存在が、演奏に先立ってスコアというテキストの読解(解釈)を行っており、作品と「既に正対している」ことと対比的である。読解した作品を「内在化」させて指揮台に立ち、今まさに指揮棒を構えようとする指揮者に対して、奏者は先ずそれに「遅延」しているのであり、その演奏に於いては、指揮者が「何を欲求しているのか」を見つめるより他無いよう、まさに「構造化」された立場に置かれているのである。

とりあえず、奏者の目の前にも譜面はある。しかし、それは「総譜」という完成品の或る「断片」の一つに過ぎない。それそのものは「作品」ではないのである。とりもなおさず、奏者はそのような断片から音を拾って発生させていく他はなく、それが他の奏者の発する音と複合して、一つの作品としての音楽を生成してくることを「期待」するのみである。

実際に実音が発し、それらが合わさって音楽が生成してきて初めて、奏者の耳にそれがフィードバックされてくる。自分の発した音が、その生成した「音楽全体」の中でどのように聴こえるか、奏者は今度は「聴衆」と化して注意深く耳を傾け、自分の発した音が「大きすぎ」たり、ニュアンスとして周囲と「ずれていたり」しないか、慎重に探りとる。そして、それは奏者としての次音の発声に瞬時に生かされるのである。このようにオーケストラに於いては、その音楽の生成は複雑極まりない「アンサンブル」として生じてくるのであり、奏者は「周囲の奏者たち」に対しても相当に「受動的」な立場をとるよう強いられているのである。

指揮者はまた、このようにして成立する全体のアンサンブルについて、それを「評価」する役割を担っている。それ以前に、指揮者は先ずオーケストラ奏者達にとって、自分たちの演奏を「享受」してくれる、第一の「聴衆」なのである。奏者達は互いの音を聴き合いつつアンサンブルを生成し、その「評価」を指揮者の表情の中に「読み取ろう」とする。聴衆としての指揮者の満足そうなうなずきや微笑みが奏者にフィードバックされ、奏者の無意識を刺激する。また、指揮者のちょっとした眉間のしわや、ふとした拍子に見せる表情の翳りが、奏者を緊張させ、その演奏を変化させてゆくのである。このように、奏者達は原初的「聴衆」としての指揮者の「満足」を求めて演奏すべく「構造化」されているのである。

このように、オーケストラ奏者は指揮者に対して常に「遅延」しつつ、それを「仰ぎ見る」位置に置かれているのであって、その欲望する音楽を欲望するように強いられている。そして、まさにそのこと自体が奏者の演奏に「無意識なるもの」を呼び込みやすい構造となっているのだ、ということは改めて指摘するまでもないだろう。むしろ、本来オーケストラ奏者というものは「指揮者の欲望する音楽」を、自ら演奏しようと受動的に「待ち構えて」おり、無意識なるもの対して「開かれている」姿勢をとろうと努めているところがあるのではないだろうか。

奏者が単独でパート譜をさらうときには、もちろん奏者自身が譜面から喚起された「独自」のイメージが生じる訳なのであって、そうしたものも奏者の中には存在しないわけではない。単独楽器の「ソロ」のような部分では、そのような奏者自身のイメージが、指揮者に「優越する」こともあるだろうし、実際そういう部分では指揮者がどう振ってこようが「弾いた(吹いた)もの勝ち」なのではあろう。しかし、複数楽器による合奏部分では単独がそれぞれの思いに従ってめいめい勝手に、というわけにはいかないし、基本的には音楽の根本要素である全体の「テンポ」というものは、他ならぬ指揮者が把握しているのである。奏者としては彼がどのようなテンポで振ってこようとも「対処」できるよう、いわば「白紙」のまま待ち構えるように「構造化」されているのではないだろうか。

このようにオーケストラにおける演奏とは、奏者が自然体で構えている限りに於いては、奏者各自の「意思的」「事前計画的」発声というものは最小限に抑制されるように「構造化」されているのであって、奏者自身も「自分がどのように発声するのか良くわからない」まま受動的、かつ無意識的に発声が連なってゆくように出来ているのだと考えられる。演奏の進行するうちに、奏者各自の「無意識的な空白」に「音楽そのものの意思」が流れ込んでくるかのように感ぜられ、まるで音楽が生命を得て「自生」し始めるかのように思われてくるとき、その誰もが予期していなかったような音楽の「芽吹き」あり、それが「ああ、このように我々は演奏したかったのか!」という心地良い「驚き」と、深い「満足感」をもたらしてくれるのではないだろうか。

ところが、このようにことがうまく運ばず、奏者のこのような受動的、無意識的な発声が「自然体」では行われなくなるような事態も、往々にして発生することがあるのである。それはどのような事態であるのか。具体例を挙げつつ見てゆくことにしよう。

まず、奏者達が指揮者に対して遅延しており、常に「指揮者が欲求する音楽」を「欲求する」ように強いられている、という構造的状況にあることを、現代の多くの奏者は「好まなく」なってきている、という事実を指摘できる。指揮者の指揮する音楽をただ「欲望させられるような」事態に、我々の時代の感性は「抵抗しようとする」のである。

なぜなら、そのように他者に「遅延」し、ただ指揮者の指揮するままに受動的に演奏行為を行っていると、奏者は「自分が自分でなくなってしまったような感じ」を味わうことになるからである。自らが意図し、主体的に行動している感覚が奪われると、人は「不能の覚知」に置き去りにされたように感じる。要するに、「馬鹿」で「無力」な人間になったような気がしてしまうのである。自分がなぜそのように演奏しているのか「説明できない」感じは、現代の多くの奏者にとって「心地良くない」のである。現代の人間は、そのように自分の主体的(意志的)行為が制限され、自分が己という人間の「主人」であることを「放棄させられる」かの如く感じられる状況を、ひどく「畏怖」し「嫌悪」する傾向が認められる。その背後にはおそらく『人たるものは、すべからく「意識的」かつ「主体的」に行為すべき存在である』といった(我々の時代に特有の)一種の「テーゼ」が存在するのではあるまいか。

奏者はこのように、指揮者に遅延し、受動的に演奏行為を行うことに「抵抗」しようとする。そのために奏者は具体的な抵抗の形として「勉強しよう」とするのである。それは、奏者が指揮者に遅延しているその「遅れを取り戻す」ための勉強である。遅れを取り戻し、指揮者と「対等な立場」に立とうとして、奏者は「スコア」を読み始める。あたかも指揮者がそうするように、それを独自に「解釈」するのである。解釈するために指揮者が通暁しているであろう音楽学的な知識も、同様に「指揮者と対等であるために」要請され、取得にいそしまれる。そこでは最終的に、指揮者と奏者が対等な立場であり、どちらかがどちらかに対して「優越していない」ということが目指されている。もちろんその「前提」として、指揮者と奏者は共通する度量衡を有した「自我/他我」である、という存在認識がそこには存在している。そのような共通基準がなければ、指揮者と奏者が「対等な位置」にあるのかどうか、測定しようがないからである。そして、そのような共通基準に照らして、自我と他我が「対等であること」は、僕たちの住んでいる世の中では「ポリティカリーにコレクト」なことだと認識されているのである。

インターネットには、プロフェッショナルなオーケストラの奏者が個人で開設しているホームページが多数存在する。それらを回覧していて痛感させられること、それは彼らが如何に指揮者というものに対して「対等」かつ「主体的」であろうと努めているか、という事実である。

そのために彼らは、自分たちを指揮する指揮者の「無能さ」について、その実例を山と並べて「あげつらって」さえいるのであり、時にはその「価値の引き下げ」をすること(それは時には天に向かって唾するような行為なのだが)さえ躊躇しないのである。いつのまに、オーケストラ奏者というのものはそのように「偉く」なり、指揮者というものはそのように「値打ちが下がった」のであろうか、と驚かずにはいられない程に、そうした傾向は顕著である。まぁ、中には「でもさぁ、そういうあんたも相当ダメなんじゃないの?」と突っ込みを入れたくなるような、次元の著しく低い書き込みも少くないわけだが、しかしこれは、そのような「無能な奏者が大勢いる」という事実を単純に示しているのみならず、そのような無能な奏者であっても、指揮者と「対等であろう」だとか「主体性を維持する」だとかいったことには「必死である」ということの、一つの「徴候」なのではないだろうか。それほど現代の奏者にとって「主体的/自立的である」ことは、彼らの精神にとって「重要なこと」だと感ぜられているのだろう。ともかく、それが現代のオーケストラに於ける「支配的な傾向」であることは、紛れもない現実なのである。

誤解のないよう、いわずもがなのことを述べておけば、僕は「奏者が勉強するのは良くない」だとか、「奏者はスコアを読まなくても良い」ということを主張したいわけではない。もちろん「奏者は指揮者と対等であるべきでない」とか「指揮者は奏者に優越しているべきだ」といったことを言いたいわけでもない(そんなことをいうわけがない)。そうではなく、僕が注目しているのは「奏者が指揮者を仰ぎ見るポジションに自分を置いて、その指揮するところを無心に欲望する」といったことが、ただ現代に於いて「時代として」大変困難になっているのではないか、ということである。それは、もしかすると現代以外の時代に於いては「当たり前に行われていたこと」なのかもしれない。人と人とが対したとき、お互いが「対等である」だとか「互いに主体的である」ことが、他の何にも増して「重要」であるというような意識の有り様は、決して「自明なこと」ではないのではないだろうか。それは、現代という時代に特有の「病徴」の一種なのかもしれないのである。

もちろん、近代自我がそのような「態度」を身につけたことによって、大きな飛躍が成し遂げられたことは間違いない。近代自我のそのような態度の根本にあるのは、デカルトの「我思う、故に我あり (Cogito el sum)」という思念である。自ら思念することが「自分」というものの根拠に他ならず、思念することを放棄することは、自我を喪うことである。そのような考え方が、西欧近代の哲学的背骨を形成している。それは中世的な人間の有り様からの脱皮を促して、あらゆる自然現象に対して「それを知的に理解すること」「主体的にそれに関与すること」を要求した。それは人間の思念や思考というものの「万能感」を増大させ、結果として人間という存在の「絶対化」を進行させた。その自信は「私は知っている」「私は理解している」という信憑形態を取る。その「知」と「理解」に基づいて、人は「主体的」に意図して行動することができる、というわけである。そのことが近代科学の著しい発展の母体となったことはいうまでもない。しかしまた一方で、それは結果として「大量虐殺戦争」を現実化せしめたのであり、深刻な環境汚染や、多くの生物種の絶滅なども招き寄せもしたのである。ニーチェの言うように、人は自らが思考する「神」となることによって「神を殺した」のである。神は死んだ。しかし、人間の理性や意志は、神のように全能ではあり得ない。我々は、そのような認識の裡に住まわざるを得ない状況にいるのである。

我々は「知らない」「わからない」状況にあることを畏怖し、嫌悪している。そして「知っている」「理解している」という自信のうちに、意図的かつ主体的に判断し、行動することが「自明である」と考えている。だから、各自がそのように「主体的」であり、互いに意識として「対等」であることもまた「自明である」と考えているのである。僕自身を含めて、僕の生きている「この時代の人間」は、その当人が好む好まざるにかかわらず、時代を支配しているこの「文化的水圧」から自由であることができない。それは、僕も含めた現代人にとって「意識すること」すら困難なほどに「自明」なことなのである。

しかし、このような意識の有り様は、実はある意味で非常に「特異的」ともいえる「文化的徴候」に過ぎないのではないか。デカルト以前の中世西欧に於いても、非西欧的文明に於いても、かつてそのようなものが「時代を支配する主要な徴候」であったことは、実は一度たりとも「なかった」のである。だからこそ僕たちは、それが「現代」という時代に「特有の価値観」でしかないことを、肝に銘じておいた方が良いのではないだろうか。正確には、これは「僕」のオリジナルな意見ではない。他ならぬフロイト大先生の受け売りに過ぎない。フロイトは「人は自らの欲望するところを意識し得ない」と述べ、「無意識なるもの」の存在によって、そのことを「告発」し「警告」することに一生を賭けた。何故なら「意識的/主体的に行為すること」をこそ「是」とし、自分が「知らないこと」から目を逸らして「無意識なるもの」を黙殺することが、どのような不利益をもたらすのか、フロイトは発見してしまったからである。

奏者と指揮者が「対等であること」は、それそのものが悪い訳ではない。指揮者がオーケストラに於ける暴君であったり、専制君主であることは、明らかに現代の社会制度に照らし合わせて不都合だし、不合理である。しかし、演奏行為に於いて、奏者が指揮者と「対等であろうとすること」は、必ずしも演奏に良い影響をもたらさない、ということは真剣に考えてみるべき案件ではないだろうか。

僕は何も、指揮者が神聖/神秘視されるべきであるとか、カリスマ的であることを推奨しているわけではない。しかし、奏者が指揮者と「対等であろう」とするあまりに、指揮者の中に表現される音楽を「欲望しなくなる」とき、そのコミュニケーションは途絶し、指揮者は単なるオーケストラの「交通整理官」に墜してしまう、ということを指摘しているのである。もともと指揮者という存在は、自分で音を発することはできないのであるから、指揮者はオーケストラの発する「実音」をひたすら欲求して棒を振るより手だてはないのである。ただ、その関係に於いて先に「求愛する」のが指揮者であって、奏者はそれに遅延している、ということに過ぎない。オーケストラ奏者がそうした指揮者の求愛に答えず、指揮者を仰ぎ見ず、その欲する音楽を欲求しなくなるとき、音楽は「抜け殻」となってしまうのではないだろうか。

奏者と指揮者が「対等であること」は、考えるまでもなく「自明なこと」である、と我々が考えて「疑わない」のは、それを「自明なこと」に位置づけて目を逸らさせようとする「無意識なるもの」の働き以外の、何ものでもない。このようなものを意識に前景化させるには「努力」が必要なのである。そうした努力は、往々にして無意識によって「妨害」される。例えば「理由はどうあれ奏者がスコアを勉強すること自体は良いことじゃないか」といった「考え」が浮かんだりするのである。無意識は、そのようにして巧妙な論理の「すり替え」を行って、我々を「知っていること」「主体的であること」という安心感の裡に安住させておこうと計らうのである。

このように考えてみると、逆に我々は「相当に努力して意識」しない限り、そのような立場から離れて「自分が己の全てを意識し尽くし、その行動の全てを意識的に行おうとすること」を「止める」ことができないのである。「身体の動くままに動く」であるとか、「心の赴くままに音を奏でる」などといったことは、相当思い切った「意識の転換」に拠らなければ達成できないことなのだろう。しかし、以前にも述べたように、そのようにして「無意識を呼び込むこと」こそが、演奏の生命力を賦活する「鍵」に他ならないのである。奏者が自分という存在をいったん「括弧に入れ」、指揮者を「仰ぎ見る」ポジションに跪き、なおかつ指揮者の「欲望するもの」を渇望してみせることによって、はじめてそこに「指揮動作」以外の「わけのわからないもの」が立ち現れて来ることができる。それが、指揮者/奏者関係に於いて「無限を汲み出す」為の「作法」であるのではないか、と僕は思うのである。

「奏者と指揮者」の関係だけではなく、「奏者と奏者」の相互関係に於いても同様に、このような受動的、無意識的な音楽生成が行われなくなるような事態が往々にして発生する。それは、アンサンブルに於いて「無意識的なるもの」が関与することを、奏者が自ら「否認」ないしは「拒絶」する、といった形で顕在化するように思われる。

オーケストラにおける合奏、即ち「アンサンブル」というものは、前回も申し述べたように「対話」というものが生成する有り様と極めて類似したところが見られる。それぞれが「既定のパート譜」に沿って、既に「決定された内容」を語らっているに過ぎないようでありながら、それは全く「思ったよう」には進行しないものなのであって、結果として常に「思いもよらなかったよう」に「語り損ねられる」ものである。それは「アンサンブル」が顔を見合わせての「語らい(対話)」であるからである。ジャック・ラカンの言うように、人は「他者の欲望を欲望する」ように「構造化」されているのであり、奏者もまた「聴き手の欲望」に合わせて、自らの奏する内容を無意識に変遷させてゆくのである。「語らい」はそのように無意識の介入によって「予想外」なものとなってゆくときもっとも白熱し、自然な「生命感」を感じさせることができる。

逆に、そのような「対話」が行われなくなり、設計図としての「楽譜通り」に演奏が整然と進行するとき、演奏は「コミュニケーション」としての要素を喪失する。単純にテンポとリズムを「機械的」に一致させ、物理的に「位置合わせ(縦の線を揃える)」をするような意識の仕方からは「アンサンブル」は生じてこないのである。このような時に奏者達の意識が集中するのは「メトロノームとしての指揮棒」である。お互いの発声は、そこから「どの程度ずれているか」という「正解との距離」としてしか評価されなくなる。何度か述べたように、奏者同士がある種の基準の元に「整列」している時、その場を律するのは「正義のニュアンス」である。奏者達の「発声のずれ」が、何らかの明快な評価基準によって「どちらが(どの程度)正しかったか」評価することが可能であるとき、奏者達はお互いに「審判し合う」ことの誘惑に抗しきれないのである。基準が外在化するとき、すなわち「神が誰が正しいか決めて下さる」と無意識に考えるようになるとき、人は互いにコミュニケーションし合うことを止める。そのような「整然とした合奏」は、奏者が互いにコミュニケーションすることを放棄しているという意味で、既に「アンサンブル」とは呼べないのである。

このように「対話」の自然さが阻害され、アンサンブルの生成が崩れてしまうのは、奏者達が何らかの「明快な評価基準」によって整列するときに他ならない。そのことについて、具体的に述べてみることにしよう。

以前にも述べたように、僕は大学で初めて楽器というものに触れた人間であった。当然オーケストラなどという世界は見知らぬ外国と同様「右も左もわからない」異世界であった。いわゆる「初心者」というやつである。これに対して、この世界には「経験者」という優位な地位を占めるものが存在した。高校までに楽器演奏の基本を習得し、オーケストラやブラスバンドといったところで合奏経験がある人間がそれに当たる。高校でオーケストラが設置されているところは少ないから、当然弦楽器の経験者は少なく(初心者の割合が高い)なり、逆にブラスバンド部がある高校は多いことから、当然管楽器の経験者は多い(初心者の割合は低い)ということが起こる。楽譜も読めない、クラシックは知らない、オーボエなどという楽器は「存在すら」知らなかった、というような「とんでも初心者」の僕が、管楽器の中で「アンサンブルする」というのは、イルカに混じって水泳の試合を強いられるようなものだった、といっても「過言ではなかった」のである。

アンサンブルが崩れる初期条件、それは言うまでもなく「下手である」ということである。英語が喋れないままイギリスを訪問して「これで大丈夫・海外旅行英会話」などという小冊子片手に、英語で「語らい」もくそもないのと同様に、音符を音にすること自体が不安定なのではアンサンブルもくそもない。だから、とりあえず僕は、自分が「間違った音を出す」「落ちる」という形でまずは「アンサンブルの崩壊」を身をもって経験し、「ひぇぇ、すんません」と謝りまくっていたのである。しかし、本当の「更なるアンサンブルに於ける問題」は、そうした技術的困難を何とか克服し、曲がりなりにも「一応それなりに音が吹けるようになった」レベルに於いて発生してきたのである。

オーケストラではオーボエがチューニングを行うことになっているにもかかわらず、周知のようにオーボエは「最も音程の悪い」管楽器の一つでもある。シューベルトの「未完成交響曲」の冒頭、クラリネットとユニゾンでの冒頭部の伸ばしの最弱音なぞは、オーボエ吹きにはなかなか嫌な部分である。僕が入部して二年目も後半になった頃であったと記憶しているのだが、或る時の合奏で、どうしてもそこのピッチが上手く合わず、演奏のやり直しが2回、3回と繰り返されたことがあった。指揮者は冷たく首を横に振り、深いため息をついてただ「やり直し」と指示するのみである。そのとき、たまりかねた当のクラリネット奏者が、後席から僕に向かってこう言ったのである。

「ねぇ、僕の音合ってますよね?」

これはもちろん「疑問文」ではない。それは質問ではなく「間違っているのはあなたの音(ピッチ)ですよね?」と告げる宣告(否定疑問)に過ぎない。もちろん、そこで期待されている答えは「そうですねぇ、あなたの音(ピッチ)は合ってるみたいですねぇ。」といった「暢気な代物」などではない。本当にそこで期待されている答え、それは「すみません(消え入るような声で)」といった「しおらしいもの」なのであって、つまり、これはある種の「権威」に照らし合わせて、僕を「審問」するニュアンスの発言なのである。一方が自明なる「正義」や「権威」に基づいて他を「審問する語法」で用いる語らい、それがオーケストラに於いて発生していたのである。

なぜ彼は僕を「審問しよう」としたのか。それはもちろん、彼が「経験者」であり、「とんでも初心者」な僕よりも、奏者として「技量が上」だったからである。技量があるということは、当然「より正確」なピッチで音が出せるということなのであって、他の「より技量の低い奏者」に対して「寄り添う」ことを要求するのは「自明だ」という考え方が、そこには見て取れる。このようなことは、もちろん一対一の合奏におけるピッチの問題だけに限らず、様々な場面に拡大して観察することが出来る。木管楽器の全体がナチュラルにテンポアップしているような場面で「一人踏みとどまった」奏者がこのように叫ぶことだって有り得るのである。

「みんな、走ってるじゃないか!ここはアテンポだろ!」

そのような状況では、むしろ彼は「少数派」なのであって、客観的に見れば他の多くの奏者に対して「彼が遅れている」に過ぎない訳なのだが、そのような「事実」は、このような指摘を行う人間にはあまり障害にならないのである。何故なら彼は、そのときテンポアップした全ての奏者より「技術的に優越」していることが明らかだからである。「遅いのはお前とちゃうんか!」という、当然というべき「突っ込み」は、ここではもちろん行われない。技術的に優越している奏者のほうが、より正確にリズムを刻む「能力がある」ことがはっきりしている以上、技術的に劣っている奏者としては自らを省みたとき「俺達が走っちゃった・・・のかもね?」としか言いようがないからである。

このように、アンサンブルに於いて自然な「語らい」が行われなくなる状況が発生するのは、多くの場合、奏者の技量に「ばらつき」があるときである。先ほど述べたように、もちろん技術的に下手であることは、その程度が過ぎれば「致命的な問題」ではあるのだが、何とかアンサンブル出来なくもない、といった技量まで到達したときには、奏者間の技量のばらつきは「また別の意味」でアンサンブルをもっと「根本的に阻害する」一つの要因となり得るのである。それは何故だろうか?

それは、楽器演奏の「上手」「下手」といった技術的なものが、測定可能な一種の汎用「スキル」と看做されており、無条件に「上手い」ほうが「下手」であるより「良い」と、誰にでもたやすく「判定可能」な事柄だからである。こんなことは改めて言うまでもないことだが、楽器の演奏技術というものは、もちろん「下手」であるよりも、「上手い」ほうが「良い」に決まっている。それに、指揮者の「指揮技量」などと違って、奏者の「演奏技量」はある程度基本技能は「測定可能」なものである。正確なピッチで演奏できるか、運指はスムーズであるのか、なめらかな音程移動ができるか、強弱が自在に取れるか、といった程度のことに過ぎないのではあるが、まぁそういうことも「基本としては大切」である。そして、そのようなレベルに於ける優劣といったものが「あまりにも明瞭」であることによって、まさに「奏者間のアンサンブル」は容易に乱されてしまうことになるのである。

優劣を判定可能な「共通の基盤」を有しており、その「距離」や「順位の判定」が可能な二者関係というものは、レヴィナス先生によれば「自我/他我」という水準に存在するのであった。二者がそのように互いを認識しあっているとき、自我は「努力」によって能力や経験をアップして、変容を繰り返すことによっていつか他我に「到達し得る」と看做されているのであった。つまり、楽器演奏というものは「誰にでも練習によって(ある程度)習熟可能なもの」と看做されていることによって、奏者達はそうした「共通の基盤」の上に整列してしまっているのである。誰にでも習熟可能なものが「下手」なのは、当然ながら「努力が足りない」からなのではないか。結果として、そのようにそこでは「熱意」や「やる気」といったものが問われてしまうのである。もちろん問題はそんなにシンプルに判定できようはずもないのだが、無意識的な「物語の水準」に於いて、楽器の技量というものがそのように「認識」されている限り、そのような単純な「序列化」が「まかり通って」しまうのである。だからこそ、優位な立場にあるものは下位のものに対して「審問する語法」を使用することが可能となるのである。

アンサンブルに「無意識」を吹き込むもの、それはラカンの述べたように「他者の欲望を欲望すること」によって、であった。しかし、技術的な優劣が明瞭であることによって奏者達が「自我/他我」という水準で序列化し、優位にあるものが下位にあるものを「審問する」権利を有していると考えているような環境下では、当然ながら「優位にあるもの」は「下位にあるもの」の欲望するものを「欲望しない」のである。むしろ、彼はその優位性によって「自分が欲するものこそを皆が欲望すべきだ」と考えるのである。だからこそ、彼は「みんな走っているじゃないか!(俺に合わせろよ)」などと発言して憚らないのである。もちろん、少し見方を変えてみれば、そんなことが「当たり前」でもなんでもないことは、すぐわかることである。どうして技術的に優位なものが、技術的に拙いものに「寄り添って」いけないことがあろう? むしろ、積極的にそうしたほうがアンサンブルとしては「有利」で「効率的」であることこそ「自明である」といっても良いくらいなのである。しかし、楽器演奏の技術は「上手い」ほうが良くて、「下手」なのは駄目だ、ということが「当たり前すぎるほど当たり前」であるが故に、技術的に「優位なるもの」が「劣位なるもの」に優越し、劣位なるものから「欲望」されることもまた、至極当然だとして「疑われることがない」のではないだろうか。

ラカンによる「語らい」に関する知見に基づくならば、オーケストラにおけるアンサンブルとは、全ての奏者が他の奏者に対して「その欲望する演奏を互いに欲望しあう」ような関係である時、最良の状態が現出するものなのである。しかし、これは言うはたやすく、実現することの非常に困難な対人関係の有り様である。なぜなら、そのような関係で居るためには、我々は安易に「共通の基盤」に立つことを放棄し、互いに「審問し合う」ことをやめねばならないからである。

多くの場合、オーケストラ奏者達は安易な「共通の基盤」をベースに僅かな差異(たとえば奏者の技量、団員としての経験や経歴、団体へのコミットの深さの度合い等)を取り上げて序列化し、「分かり合える同類」という馴れ合いの中に安住することを選択する。そのほうがお互いに「同類である」という安心感が得やすく、また構造的に安定しやすいからである。現に互いに合奏するときにも、「正確な指揮棒」という基準からの差異を取り上げて、縦の線を揃える方が労力としては「容易」なのである。逆にそのようなことを排し、なおかつ音を揃えようと思えば、互いに音楽をはさんで必死にならざるを得ない。必死に相手の発する音を聴き、相手が「このように演奏してもらいたがっているのではないか」ということを想像して、その他者の欲求に基づいて発声すること。それが「アンサンブル」ということの本当の意味なのである。このような真剣な対峙を目指すということは、ある種「馴れ合わない」ということ意味しているのであって、これには相当に「強い意識」を持つ必要がある。それはとてもエネルギーを要することに違いないのである。

さて、今回はオーケストラ奏者の立場から「演奏の生成」といったものを概観してみた。オーケストラというシステムは、奏者が指揮者という「他者」の「欲望するものを欲望する」という構造を持っていることによって、また奏者が他の奏者の「欲望するものを欲望する」という在り方でアンサンブルを生成する構造となっていることによって、そこに「無意識なるもの」が介在する余地を確保しており、そこから「音楽の生命」が吹き込まれてくるのではないか、ということを改めて指摘した。そして、それが如何に破綻しやすいものであり、実際に多くの例に於いて破綻しているか、といったことについて述べてみた。

現代に於いて、指揮者と奏者、或いは奏者同士がその「対人関係」に於いて、レヴィナスの言う「私/他者」の水準で関係を取り結ぶことは、とても困難なことなのだろう。それは、現代人が「意識的であること」「主体的に行動すること」を殆ど無批判に「是」とする、特異な「文化的水圧」の中にあるからである。「わからないこと」を畏怖し、「わかりあえること」に固執するとき、人間はその弱さ故に「わからないことを畏怖している」という事実から目を逸らし、「構造的に忘却」しようとするのである。逆に「わかりあえること」を志向することには、万能の意味づけが施されてしまうのである。しかし「わかりあえる」ことに安住するためには、我々は手っ取り早くお互いの「距離を測定」し、「定位し合わ」ねばならない。そのために我々は「共通の度量衡」を必然的に要請してしまうことになるのである。

音楽的教養(が豊富である方がよい)、音楽解釈(は精密に作者の意図に沿って行った方がよい)、楽器演奏技術(はとにかく上手い方がよい)、といったもの達は、オーケストラという世界に於ける対人関係に於いて、僕たちが「わかりあえること」に固執するために導入した「共通の分かりやすい度量衡」に他ならないのである。そのような測定可能の基準の元に、僕たちはせっせと「格差の解消」を目指してお互いに努力するのであり、そのようにして「対等な立場」に立つこと(或いは立とうと努力していること)で「安心しあっている」のである。そして、そのことが結果として、どのように音楽の生成から「無意識なるものの関与」を奪い去ってしまうのか、ということを、今回は少しばかり「誇張して」語ってみた。

まさに、この理由のために、僕たちが音楽を求めるとき、まずは「音楽そのもの」ではなく、音楽と向かい合おうとする僕たち同士の「対人関係の有り様」について「思いを巡らせる」ところから、まずはそこから「開始」するしかないのではないだろうか。アンサンブル・フロイントは、そのようにして先ず「対人関係の有り様」の理想をまさぐる形でスタートした。そして、そこから徐々に「音楽」の生成に向かったのであり、決してその「逆」ではなかった。その「事実」について、今さらのように僕は思い返してみて「腑に落ちる」ような思いがするのである。

さて、次回は音楽生成に於ける「聴衆」について語ってみようと思う。音楽を聴いて、それを「享受する」というのは、どのようなことであるのか。音楽に感動し、それを「良い」と感ずるとき、僕たちの中でどのようなことが起こっているのか。そのことについて、つらつら考えてみたいと思っている。それでは、また。

このページの画像および文章の無断転載および無断使用を禁じます。

>> 第14章へ続く

Copyright©2004Jiro & Ensemble Freund All Rights Reserved