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音楽を求めて 12〔大石 聡/2006.2.1〕

…ML投稿文 

第12章 無意識が音楽を語ること。そこに音楽の生命力が開花すること。

ここまで、主に指揮行為というものについて語りを進めてきた。指揮技法について。技法を超えた「指揮者そのもの」という存在について。その「教育」について。指揮者が作品を読み込むという「解釈行為」について。そしてその解釈に基づいて「指揮をはじめる」ことについて。これらを、主にレヴィナスの対人二項に於ける「決定的に異なる二つの水準」という考想に基づいて分析し、その「質の違い」に焦点を当てて考えを深めてみた。今度は、音楽演奏というものの「生成」について、そこに奏者の「意志」だけでなく、その「無意識」が如何に関与するのか、という切り口でもって、つぶさに眺めていくことにしたい。

演奏行為は、よく「語ること」に例えられる。音楽を器楽による「語らい」と比喩すること。それは、器楽同士の合奏を「おしゃべり」という対話に例えることでもあるし、その総体として生まれ出る音楽全体が、「聴衆」に対して物語的に「語らってくる」ことを指すことでもある。

と、いっても「楽音そのもの」が「言葉」と同質だといっている訳ではない。「楽音」は「言語」が持つ程には「抽象的な指示機能」を持たない。「音楽」と「会話」はその意味で決して等質なものとは云えない。

ソシュールがかつて示したように、「指し示すもの」としての言語機能(シニフィアン)は、「指し示されるもの」である表象(シニフィエ)と結合して生成してくるものである。言葉は、直接何かの「実在」を指し示しているわけではない。生成した「表象」が、知覚された「現実の何か」に「適用」されることによって、そこに「言語理解」というものが成立するのである。「言葉」は決して直接何かの「具体」を示さない。「犬」という或る具体な実物があり、それを指し示すために「犬」という言葉が産まれた(命名論的言語観)わけではないのだ。何故なら、人は秋田犬を見ても、ブルドッグを見ても、ポメラニアンを見ても、それが「犬」だと分かるからである。人は「犬」という言葉(シニフィアン)の指し示すものである、シンボルとしての「表象の犬」(シニフィエとしての「犬」=犬という抽象概念。足が4本あって、毛が生えていて、わんわん鳴いて、人に良く馴れて、といったものの集合体)をまず「獲得(学習)」する。その「言葉」は意味の分からないまま繰り返し用いられることによって、その様々な使用状況から少しずつ「焦点づけ」られるようにして、「表象的世界」の中で「他の表象との差異」を獲得して確立されるのである。つまり、犬とは「猫とはちょっとだけ違うもの」であり、「象とはかなり違うもの」であり、「イルカとは全然違うもの」という「差異区分」に他ならないのである。そのようにして、ようやく現実の「犬」は「それ」と認識されるようになる。このように、言葉というのは何かの「具体」である以前に、シンボルとしての「抽象的表象」であり、シニフィエ/シニフィアンの結合として概念化されるものなのである。それがソシュールの「一般言語学講義」がもたらした知見であった。

しかし「楽音」そのものは、そこまで洗練された「抽象化能力」を持つわけではない。楽音が生成するものは「シニフィエ」ではない。楽音の連なりとしての「音型」が何かを「表象」する、というような指示的な(シニフィアン的な)使われ方をすることは確かにあるかもしれない。標題音楽、情景音楽、というような表現も存在する。リムスキー・コルサコフの「シェエラザード」に於いて、低弦に現れる「繰り返すうねりの音型」は、確かに多くの人の中に「波」のイメージを喚起する。しかし、それはあくまで、言語よりももっと「生」の、「知覚そのもの」に近い水準で人を揺さぶるものである。「さざ波を思わせる音型」の届けるものと、「さざ波」という言葉(シニフィアン)の指し示す表象(シニフィエ)は、やはりそのまま等号(=)で結べるものではない。それは「さざ波そのもの」に足を浸したり、その波動する勢いを「間近に感じ」たりする現実の「知覚体験」と、さざ波という言葉によって抽象化された「言語表象」との、ちょうど「中間」あたりにある。さざ波を思わせる音型は、さざ波の「記憶」を直接「揺り動かす」ような仕方で、その遠い感覚を間近に「呼び覚ます」のである。

むしろ「音楽」と「言葉」は、その「語らい」の「指し示す内容」が似ているのではなくて、その「生じ方」が似ているのである。時間軸に沿って、お互いの音がまた別の音の反応を「求め合い」ながら生起する、といった「音楽」の有り様は、同じように時間軸に沿って、お互いの言葉がまた別の言葉を呼び合うような「語らい」の生起してゆく有り様と、その「生起の仕方」がよく似ている。人と人との間にこのように生じる「語らい」、すなわち「対話」について、実に興味深い考想を展開した先人が存在する。フロイトの後を受けて、フランスに於いて精神分析を独特のやり方で深化させた精神分析家、ジャック・ラカンその人である。

ラカンは「精神分析」の場面で生じている「対話」の有り様を追いつめていくことによって、人と人との「あいだ」に生じる「語らい」というものが、いかに深く「無意識」の働きに根ざしているのか、ということをフロイトに沿って「再発見」してみせた。フロイトの見出した「無意識」とは何だっただろうか。それは、人は自らが何を「欲望」しているか知らない、という知見であった。ラカンはこのことを正確極まりないやり方で敷衍し、深化して見せた。つまり、人は自らが何を「語りたいのか」知らないまま「語らい」を行っている、ということである。このことを、ラカンは「人間は、前未来形(未来完了形)で過去を語ろうとする」と表現し、また「人間は他者の欲望を、欲望する」とも表現した。

前未来形(未来完了形)、とは「明日の正午頃までには、僕は仕事を終えているだろう」というような語り口のことである。人は語り始めるとき、既に頭の中に存在している「考えられたこと」という「過去」に基づいて語ろうとする。そして、その語らいを開始するとき「話し終えた私」という「未来」を見据えて、そこへ向けて語らいを進めようとするのである。それが「対話」ではなく、一方的で退屈な「講演」のように進行するときには、それは「テープレコーダーの再生」のように、限りなく「考えられたこと」そのものに近い形で進展し、予想通りの「話し終えた私」に辿り着くことだろう。しかし、実際の顔と顔を見合わせての「対話」に於いては、「語る」という行為はそのようには「進展しない」のである。

話者は相手の反応を見て、その「つまらなそうな表情」に慌てて少し語り口を変える、という具合に、微妙に「考えられたこと」を「変形」させてゆく。その相手が、話者と「深い関係」にあればあるほど、また相手の聞く態度が「親密」であればあるほど、その「変形」の幅は大きくなってゆく。ときには話者は、相手の顔を見ているうちに、ふと「思いもよらなかったこと」を話したくなったりするかもしれない。或いは、話しているうちに不意に「全く忘れていたこと」を思い出して、それについて語り始めたりしてしまうかもしれない。このようにして、人と人との対話に於いて、語り始める以前に話者の頭の中にあった「考えられたこと」は、語り終えたときにはその最初の姿と「似ても似つかぬもの」に変形していた、ということが明らかになるのである。

人は、このように「未来完了形」で、つまり「話し終えた私」という未来を目指して「語らい」を進めてゆく。そして既定の「過去」について語ろうとする「意識的(主体的)」な行為のうちに「無意識」が介入して、それを「変形」させてゆくのである。そうして、結果として常に「語り損なう」ことになるのである。そして、その「語り損なったこと」によって、人は初めて「自分が何を語りたかったのか」を「事後的」に知ることになる。

フロイトはかつて「ついうっかり言い間違える」という「失錯行為」の中にそれ(無意識の介入)を見出した。教授の就任パーティーに呼ばれて、乾杯の音頭を取ることになった人が、その人の「無意識の願望」に基づいて、ついうっかり「教授の『退任』を祝って、乾杯!」と音頭を取ってしまった、という事例が示しているように、人は自分の失錯行為の結果から、自分が本当に「何を欲望していたか」を思い知るのである。ラカンは、こうしたフロイトの見出した知見に基づいて、「語らい」という行為についてさらなる精密な考察を深めてみせるのである。

このような「語らい」に於いて、あくまで意識的に「語ろう」とする主体に対して介入してくる「無意識」とは何だろうか。そして、それはどのように話者という主体の中にあったものに働きかけ、それを「変形」させてゆくのだろうか?

あなたは先刻、なぜ慌てて少し「語り口を変えた」のだったか。それは、あなたが相手の反応を見て、その表情に「あ、つまらないと思っている」ということを見出したからであった。相手があなたにとって親密な関係だったとき、例えばそれがあなたの「恋人」であった場合、あなたはいつも話し馴れている「自分の過去」という話題について、いつもより少し「脚色」して話してしまうかもしれない。小さい頃の自分が、今の自分とどのように「違って」いるか、少し大げさに「面白可笑しく」話をしてしまったのは、あなたが恋人に「笑って欲しかった」からであり、「へぇ、意外だわ」というように、更なる「関心を向けて欲しかった」からでもあろう。話している途中に急に「そういえば、さぁ」と話題が逸れてしまったのは何故だったか。話し始めたとき、あなたはそのことを考えてもおらず、そもそもずっと「忘れて」いたのである。あなたはそれを、恋人の顔を見つめていたことによって「思い出した」のである。特別な深い繋がりのある人といるとき、人は「忘れていたこと」を不意に思い出し、「思いもよらなかったこと」をしゃべってしまったりする。むしろ、これは逆なのであって、その人といると「そのようなこと」が起こってしまうような人、そういう人こそがあなたの「恋人」となる人なのである。

あなたの「語ろうとしていたこと」に介入したのは、恋人であるその人の「微妙な表情の変化」だった。その人は、あなたに何かを直接告げたわけではない。ただ、黙って話に耳を傾けていただけである。そこに「つまらなそうな」表情を「見つけて」しまったのは「あなた」なのであり、その「生き生きした笑顔」や、「目をキラキラさせる様」などを「欲した」のも「あなた」だった。それは正確には「その人の欲望」ではなく、「あなた自身の欲望」がその人に「映し出されたもの」に他ならない。人はそのようにして「他者の中」に己の欲望を見出すのである。ラカンはこのことを「人間は、他者の欲望を欲望する」と端的に表現した。人と人が向かい合い、対話という「語らい」を繰り広げるとき、このようにして、そこには「無意識」なるものが介入し、その人が主体的に語ろうとするものを「変形」させてゆくのである。

ラカンは、「人は自らが欲望するところを知らない」というフロイトが見出した知見から、このように精密な敷衍を行ってみせ、対話に於ける「無意識の働き」について「再発見」してみせたのである。

先に述べたように、「演奏すること」と「語らうこと」は、その生起の有り様がよく似ている。そこで、「語らい」に関するこのラカンの考想を、あるシンプルな「演奏行為」に実際に当てはめ、想像を巡らせてみることにしよう。

あなたが独りでギターを弾く。そのようなシンプルな演奏形態に於いては、奏者であるあなたは「聴衆」を兼ねている。演奏を開始するとき奏者の中には、譜面というテキストから読み取られた「音楽(解釈)」が、既定の「過去」として存在している。奏者はその過去について、それを「演奏し終わった私」という形で未来完了形で想像しつつ、ごく主体的に語り(演奏し)始めるのである。

「解釈された音楽」という「過去」、即ち演奏開始前に奏者に「内在していた音楽」は、演奏行為を行っている「私」と、それを「享受する」という私が微妙に「分裂」して対話することによって、つまり奏者の中で「内的な対話」が行われることによって、少しずつ微妙に「変形」していく。そして、最終的に演奏し終えたとき、そこには「語り損ねられた音楽」としてのそれが立ち現れることになる。そして、あなたはその微妙な「語り損ない」から、あなたが「本当はどのような演奏を欲望していたのか」ということについて、初めて思い知ることになるのである。「語ろう」と思うあなたと、それを享受して「こう聴きたい」と思うあなた。その二人のあなたに「無意識的な差異」が存在している、という「紛れもない事実」について、ラカンの知見は教えてくれているのである。

さて、そこに独りの聴衆が現れる。その人を「あなたの恋人」だと仮定してみよう。「ねぇ、何を弾いてたの?もう一度私に聴かせてくれる?」と、その人があなたに言う。「良いとも。」と、あなたは応えて、再び譜面に向かい、ギターを弾き始める。そのような状況をさらに想像してみることにしよう。

この時、奏者であるあなたの中に存在している既定の過去、すなわち、譜面というテキストからあなたが読みとった音楽(解釈)は、先程と何ら変わるところがない。しかし、あなたが演奏によって向かう先、すなわち「演奏し終わった私」という「未来完了形」で想像されるものは、先ほどとずいぶん異なってしまうかもしれない。恋人を音楽によって酔わせたい。「心地良い」音楽を奏でて、その人に「感動」を届けたい。そのような「未来」を志向しつつ演奏するとき、演奏は大きくその向かう「方向」を変えることだろう。このように、語らいは常に「未来完了形で過去を語る」という在り方に構造化されていることによって、まずは聴衆という「他者の欲望」、正確には「他者の欲望とあなたが見なしたもの(=あなたの無意識)」の介入を許してしまうことになるのである。

さらに演奏が開始されてみると、そこにまた様々なことが展開するだろう。目を閉じてあなたの演奏に聴き入っているその人の「表情の変化」が、あなたの演奏を微妙に変形させてゆく。その人がふと「眉をひそめ」たら、あなたは「はっ」として、「音をひそめ」るかもしれない。その人が「うっとりとした笑み」を浮かべたら、あなたは勇んでさらなる「旋律の強調にいそしむ」かもしれない。演奏している最中にあなたはふと、その恋人への「思いもよらなかった感情」を自分の中に探り当ててしまうかもしれない。その驚きが「思いもよらなかった音楽の表情の変化」をもたらすこともあるだろう。最終的にあなたが辿り着いたその音楽は、驚いたことに、先ほどの演奏と「似ても似つかないもの」になってしまっている。何故だろうか。

この時、その演奏の「大きな変形」をもたらしたのは何だったろう。もちろん、恋人である「聴衆」が存在した効果によって、その変形はもたらされたのである。しかし、恋人は直接、あなたに「何か」を要請したわけではなかった。その人は、ただそこに黙って座って音楽を聴いていただけである。その人へのあなたの「親密な感情」が、演奏の向かう「方向」を大きく変えさせたこともあったのかもしれない。その人の「微妙な表情」に、あなたが繊細に反応した結果が、音楽の表情を大きく変容させたともいえるだろう。さらには、あなたが演奏中にふと発見した自分の「思いがけない感情」が、音楽を予想しなかったところへ連れ去った、ということも有り得ることである。

しかし、それらは全て「恋人であるその人」に発したものではない。それらは全て、奏者である「あなたの中」に発したものである。正確に表現すれば、あなたは「その人が聴きたいだろう」と、あなたが勝手に「想像」した音楽を演奏したのである。そのことが「あなたの欲望」を変形させた。つまりあなたが「聞き手の欲望」と見なしたものの効果が、その演奏をこのように大きく変形させたのである。演奏行為が、奏者と聴衆の「語らい」となるとき、そこには「聞き手の欲望(とあなたがみなしたもの)」が「語り手の欲望」を圧倒する、という事態が発生する。奏者である「あなたの欲望」は、いつのまにか「聴衆の欲望」だとあなたが見なしたものによって「占拠」され、あなたは「聴衆の欲望」を「欲望する」ようになるのである。

人は「語らい」において、自分が「他者の欲望を欲望する」ことを知るだろう、とラカンは予告した。そして実際に、その通りのことが「演奏行為」という「語らい」の中にも、やはり起こっているのである。

このようにして、ラカンは人の「無意識」というものが「他者の欲望」によって形成されており、それが「語らい」という対話を「支配」していることを我々に教えてくれた。もちろん、ラカンはそれを精神分析の場面に於ける「語らい」の中に見出したのである。フロイトの精神分析理論は精神科臨床に携わる多くの者に「受け入れられた」が、その多くの本質は弟子達に「理解」されることなく、ただ表面的に「理解」しやすく「パッケージ」して「流通しやすい」ものだけが、学問として権威付けられて「通用」するようになってしまった、とラカンは嘆く。

例えば、分析場面において、医師が患者の無意識を「暴き出して」みせ、それを「抵抗」する患者に突きつけ、患者がそれを受け入れて「改心」すること、即ち「洞察」こそが分析的治療の「根幹」を為すものである、と主張するフロイト直系の弟子達に対して、ラカンは「馬鹿を言うな」とこれを笑い飛ばしてみせる。そして、逆説的に己の分析場面に於いて、ラカンは「何も語らない」で居てみせるのである。

彼はただ、黙って患者の話を「聞いているだけ」である。しかし、ラカンの微妙な表情の変化や、その相づちの仕方の些細な違いによって、患者がどれほど微妙にそれに反応して「語らい」のトーンを変化させるのか、彼らがどれほど「ラカンの気に入られるように」必死に作り話をしようとするのか、そこに「無意識」というものがどのように介入するのか。そうしたものをラカンはつぶさに明らかにして見せた。そして「解釈」などというお節介なことをしなくとも、患者が勝手に「素晴らしい語らい」を展開して、自然と「治ってゆく」ことを明らかにして見せたのである。

しかし、結果としてその為に、ラカンは「国際精神分析学会」を追われることになった。フロイトの創設した「分析の手順」を遵守しなかった「罪」に問われたのである。皮肉なことと言わざるを得ない。しかし、ラカンはさしてこのことに動じる風もなく、独立学派としての「ラカン派」を創設してみせた。それは、ラカンが「真実を語る者は、かならず無意識によって意識という舞台から排除される」ことを熟知していた、からなのかも知れない。

このようなラカンの知見に準拠してみたとき、演奏行為という「対話」は、奏者が自らの作品解釈という「固定された過去」に基づいて「意志的/主体的」に行うものに決まっているかのように思えつつ、実はまったく「そうでない」ことがわかる。

演奏行為は常に「演奏し終えた私」という「不確定な未来」に向かって行われるよう構造化されている。演奏の向かう先である「演奏し終えた私」とは、私が無意識のうちにぼんやりと想像するものであって、明瞭に意識することができないものである。しかし、その想像される「演奏し終えた私」は、演奏の行われる状況によって刻々と「変化」する。演奏者としての「私」は演奏する状況によって、何となく「あがって」たり、何となく「緊張し」たり、何となく「高揚し」たりする。そのような私の「微かな徴候」の変化こそ、「演奏し終えた私」の姿が「変容する」ことの証拠なのである。

しかも演奏そのものがいったん開始されれば、そこには様々な「他者の欲望」が押し寄せてくることになる。「聴衆の聴きたがっている演奏」とあなたが見なしたものもその一つであるし、合奏しているメンバー達が「このように演奏してもらいたがっている演奏」とあなたがみなしたものも、その一つである。奏者たるあなたの「主体の欲望」は、これらの「他者の欲望」によって押しのけられて、占拠される。あるいは、それらは一つに統合されて、それ自体が意志を持った一つの生き物のように蠢き始める。演奏とは、奏者たる「私の欲望」が、そのような無意識的な「錯覚」のうちに機能する行為である、ということになる。

我々は実際に演奏行為を行っているときに、自分の「意識的」な行為が薄らぎ、それが「主体的」であるという感覚が遠くなってしまう、ということを実際に「体感」することがある。確かに自分がはっきりと「覚醒しつつ」その演奏に参加していながら、何故そのように演奏しているのか「説明できない」ような感じが起こるのである。このような感覚について、我が国を代表する精神科医/精神病理学者で、実際にアマチュア音楽家として合奏経験もある木村敏はこのようなことを書いている。

『私は学生時代、音楽に熱中していた。自分では主としてピアノを弾いていたので、器楽や声楽の伴奏や、室内楽の合奏をする機会が多かった。もちろんへたくそ同士の合奏だから、お互い自分自身の譜面を間違えないように弾くだけで精一杯だったが、そんな演奏でもたまには充分に息のあった合奏の醍醐味が経験できることもあった。そんな経験を繰り返しているうちに、私はそこで自分の意識の中に不思議なことが起こっているのに気付き始めた。数人で合わせている合奏音楽の全体が、個人の意志を超えた一つの強大な意志を持ち始め、まるで一個の生き物であるかのように感じられてくる。そしてその大きな意志が、私個人の演奏のテンポやリズムだけでなく、私がひとつひとつの音に与えるもっと微妙な表情にいたるまで、私自身の演奏行為を支配し、操作するようになる。もちろんこの大きな意志は、私が自分自身の意志で自分の演奏を続けている限りでのみ成立しているのであって、私が演奏をやめたり、譜面を間違えてつっかえたりするとたちまち消滅してしまう。しかしそれが成立している限り、この意志は生々しい実体性を帯びて、まるで目に見えない生き物のように感じられ続ける。つまりそれは、私の演奏を細部に至るまで規制しているものなのに、その一方で私個人が自分自身の演奏を通じて作り出しているものでもあるということになる。だから、この合奏全体の大きな意志と私個人の意志とは渾然一体となって区別ができない。私の動きが全体の意志の中へ吸収されてしまっているとも言えるし、私が自分の意志の中へ全体の動きを統合しているとも言える。』

木村敏がここで言っている「二重意志」つまり、「私自身の意志」と「個人を超えたひとつの強大な意志」と述べられているものの「せめぎ合い」或いは「統合」といった相互作用の在り方は、ラカンの言う「奏者(語り手)の欲望」が「聴衆(聞き手)の欲望(と奏者自身がみなしたもの)」に押しのけられ、支配されてゆく有り様と重なっている。複数の奏者による合奏場面での「語らい」とは、私が「演奏しよう」と思っている「主体的意志」と、共に合奏している別の奏者に対して私が「彼はこう演奏して欲しいと思っているのではないか」とみなしている「別の奏者の欲望しているもの」、つまり「他者の欲望」とのあいだで「せめぎ合い」、或いはそれらが「統合」されて「生成」してくるものなのではないか。私が確かに演奏しているのでありながら、その演奏は「外から到来したもの」であるように感じられる。しまいには、それらの「他者の欲望」は渾然一体となって、「演奏そのもの」という生き物の「意志」であるかのようですらある。そして、これが感じられることこそが、「演奏の醍醐味」なのだ、と木村敏は言うのである。

勘違いされがちなことなのであるが、無意識の介入は、語らいや演奏といったものを「スポイル」しているわけではないのである。その介入の結果としての「語り損ない」は「真実を明らかにする」わけなのであって、語らいそのものを「破壊」するわけでも何でもない。むしろ、木村敏の言うように、演奏が本当の「佳境」に入り、その生命力が「開花」するとき、そこには必ず「意図しないもの」が介在して、そこに生命を「吹き込んでいる」のである。

予定していたことがそのまま語られてしまうような、テープレコーダーの再生的な「講演」というものがちっとも「面白くない」ように、練習できっちり積み上げられてきた「打ち合わせ事項」の一つ一つが、まさに予定したようにきっちり実現できた演奏は、やはりちっとも「面白くない」に違いないのである。プロフェッショナルな演奏家は「あがらない」ために「場慣れ」するという努力をするわけだが、その結果として満場の観客がじっと自分を熱く注目していても、そこに「カボチャ」が並んでいるが如く「無感動」に接することができるようになってしまうのである。そこに立ち現れてくるのは「破綻こそ無いが、プロずれしたおもしろみのない演奏」に他ならない。演奏行為の目標は、強靱な「意志の力」によって無意識を「締め出し」、練習通りに「何度やっても同じ」演奏をすることではないはずなのだが、プロフェッショナルな演奏家であろうと努力することが、そうした「予期せぬ」結果を招いてしまうのである。プロの演奏が「上手いけど面白くない」ものになってしまう決定的な「からくり」がここに示されている。

演奏行為に於いては「予期しなかったもの」がそこに立ち現れてきたとき、その「本来の生命」が輝き始めるのである。演奏という「語らい」において、それが生命力を帯びることの「秘密」として、そこに「無意識」が介在している。生命力あふれた演奏を行うことのできる優れた演奏家は、悉くこの「秘密」を知っていて、「我がもの」にしているのではないだろうか。

人間は、自分が何を欲望しているのか本当には知り得ない。このフロイトの知見を知ることは、人間を「無力感に陥れるもの」では決してないのである。それは人間が「意志」や「知恵」の力によって「全てをコントロールできる」と愚かにも考える「錯覚」を、粉々に打ち砕いてくれるものである。全てを知ろうとし、全てを理解し、考え尽くせると考えること。そして、実際にそれを目指そうとすること。そのことによって「可能の語法」で自らを語り、行動しようとする者は、結果としてどのように「大切なもの」を汲み損ない、「見落としては為らないもの」を見落とすのか。フロイトは、繰り返しそのことを「実証」してみせ、そうすべきでないと「警告」を発し続けた。全てを知り得ず、理解し得ず、また考え尽くせない。そのように「不可能の語法」で自らを語り、行動するようになって初めて、そこに「わけのわからないもの」だとか「想像もつかないもの」が「奇跡」のように立ち現れてくる。その立ち現れてくる故郷、全ての「根元」なるものこそが、フロイトの言う「無意識」なのである。ラカンはそのようにして、フロイトの語る「真実」を、安易な誤解から取り戻してみせたのではなかっただろうか。

今回は、音楽演奏というものの「生成」について、そこに参加しようとする者の「意志」だけでなく、その「無意識」がどう関与するのかということを、ラカンの知見を元にして考察してみた。音楽演奏に於いて、このような無意識の働きの「大切さ」を知っていることは、まさに「決定的なこと」であるように、僕には思われる。

「完璧な演奏などというものは存在しない。しかし、それを求め続けることが大切なのであり、芸術行為なのだ。」というようなことを、多くの演奏家たちが語るのを聞く。しかし、それは「嘘だ」と僕は思う。

彼らは「完璧な演奏」について「存在しない」といいつつ、それをあたかも存在するかのように信憑して疑わない。そして、それに「努力」という意識的な行為によって「近似してゆく」ことが「芸術行為」だというのである。彼らが本当に言いたいこと、それは「私は(自分の目指す)完璧な演奏が何であるのか知っている」ということである。彼らは「謙虚」にも、そこへ「到達できる」とは口にしない。「いやあ、私なんかまだまだですよ」というその語り口は、一見すると「不能の覚知」や「無限への畏敬」と酷似しているかに見える。しかし、それは実は「似て非なるもの」である。

完璧なある一つの「限定的な演奏」を想定し、そこへ向かって「収斂しよう」と努力することは、実は芸術行為を「縮減」する行為に他ならないのではないか。全てを知り、意識しつつ意志の力で「コントロールし得る」と見なすことそのものが「誤り」なのであり、そのように思考すること自体が、肝心なものを音楽から汲み出すことを妨げているのではないか。「知る」「意識する」ということを「自明」とする現代の思考形態は、それ故に「知らない」「意識できない」ということを「畏怖」し、無意識に懸命に「回避しよう」としているのではないか。

木村敏のいうように、全ての奏者の欲望が一つとなり、そこに「音楽そのものの意志」が立ち現れてくること。それこそが「完璧な演奏」に他ならないのではないか。むしろ逆にそのようなことを認めず、「意志の力」や「意図的な努力」によって演奏から「無意識」を締め出し、予め脳裏に描き出した「完璧な演奏」という幻想を「実音化する」ことを目指すという、そういった演奏の姿勢こそが「完璧な演奏」を「殺害」しているのではないだろうか。

「完璧な演奏は確かに存在する。しかし、それは決して唯一の完璧ではなく、無数に予期できない形で存在し得る。」そのように考えて、はじめて「完璧な演奏」への道が開かれる。「完璧な演奏」は、そのような「作法」に基づいて希求されなければならない。僕には、そのように思えてならないのである。

次回は、再びオーケストラの演奏に回帰してみようと思う。そして、オーケストラの奏者から「指揮」というものを見ること、奏者にとっての「指揮に基づく演奏」というものについて、今回同様ラカンの知見を援用しながら考察してみようと思う。では、また。

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