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音楽を求めて 11〔大石 聡/2006.1.24〕

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第11章 指揮者に内在する音楽が、指揮そのものを左右するということ。

前回は指揮者が「作品(総譜)を読む」ということに焦点を当てて、そのテキストとしての作品読解(解釈)に於いても、レヴィナスのいう「全く異なる二つの水準」が存在するということについて語ってみた。その結果として、指揮者が指揮台に立ち、オーケストラに向かって指揮棒を振り下ろそうとするとき、その指揮者に内在する「音楽(解釈)」は、既に決定的に異なってしまっているのではないか、ということを指摘したのだった。今回は、そのような指揮者のテキスト読解の有り様の決定的な「水準差」というものが、実際の指揮場面においては、どのような「違い」として現れてくるのだろうか、といったことについて、ごく具体的に場面を想像しながら考察してみたいと思う。

さて、指揮者が今、まさに指揮台に上がり、オーケストラの面々に向かって立った。いよいよ指揮棒を構えようとするところである。譜面台に置いた総譜を見つめて、指揮者は自分の中に、自分が既に「読み込んだ」その音楽をそっと「手探り」することだろう。そして、その「音楽」を現実の「実音」とするべく、奏者達に向かって、その「身振り」によって「指揮」というコミュニケーションを発するのである。

指揮者自身は、何らの「実音」を発することができない。それは全て奏者達によって実際に「発声」されるのである。指揮者は何かを指揮によって「語っている」のだが、その「語り」は別人によって「発声」される。ゼスチュア・ゲームでパントマイムを行い、その意味する言葉を誰かが推測して「言葉」に変換するのと、それは少し似ているようでもある。「声を出さずに」指揮者は語り、その結果として発声された「奏者の語り」に耳を傾ける。それは指揮者にとって、実際には「他者の出した音」なのであるが、元来は「自分が発しようとした音」でもある。自分は直接発声によって語ることを「禁じられた」まま、他人の発声を促して、自分が「語りたかったこと」を聴く。指揮するとは、そのような「不思議な行為」であるように、僕には思える。

さて、その指揮者に内在する音楽が、テキストから「第1の水準」によって読みとられたものであった場合、即ち指揮者と作品(作曲者)とがレヴィナスのいう「自我/他我」の水準で関係している場合、指揮者はその作品を書いたときの「作曲者の思い浮かべていた音楽」を目指すことになる。そのように(指揮者である)自我を延長していけば、(作曲者である)他我の有り様に「到達できる」と信じて疑わないこと。それがテキスト読解の「第1水準」の有り様であった。このような水準にあっては、作品というテキスト読解に「作曲者自身の頭の中に(作曲していたその時に)鳴り響いていた音楽」という、一種の「正解」が用意されることになる。指揮者はその「正解」を想定しつつ指揮しており、その結果として発せられている実音を、正解(とその指揮者が信じるもの)と「照合」していることになる。

このような指揮行為が行われているときに、指揮者が違和感を感じて演奏を中止したとしよう。「そうじゃない」と、指揮者は大声で奏者達に手を振り、演奏を中断する。この言葉の意味するところは何か。それは「これは私の語ろうとした言葉(音楽)ではない」ということだろうか。もちろん、そうだろう。しかし、その言葉の裏には常に「これは作曲家自身(という他我)が語ろうとした言葉ではない」という「意味」が、常に「こだましている」のではないか。この場合、指揮者は「私の求めている音ではない」と口にしながら、作曲者自身という「他我」の求めていた「正解の音」との「差」、つまり「距離」のことを口にしてしまっているのである。そこでは「正解」を基準としたある種の「差異」が語られており、それは測定し、定位して指摘することが可能なものである。このような状況下で用いられる言葉が「暗黙のうち」に従属するもの。それは「正義」である。その言葉は「その演奏は正しくない」という「正義のニュアンス」のうちに発せられることを、どうしても免れることができないのである。

そのようなニュアンスが充満しているとき、指揮者はいつしか「作曲家自身」という他我と「同一化」してオーケストラの音を聴き、それを正解と照合しながら「審査」するという状況に「近似」してしまうだろう。指揮者の発するコメントは、自然と「明快な(だが含みのない)もの」となるだろう。奏者に対する指示は「(正しいことを)教え諭す」という色彩を帯びてくることを免れられないだろう。それは指揮者自身というよりもむしろ、その中に内在している音楽の「有り様」が、そのように「要請」しているのである。そのように現実の実音を「審査」するとき、指揮者はその実音を「修正」することに抵抗を持たなくなる。積極的に「実音の流れ」を遮ってでも、「修正」が優先されるようなことが起こる。そのようにして合奏は、多くの「中断」を余儀なくされるようになるのである。そして、いつしかその全ての流れが、一つの架空の「ある演奏」を目指して、ただそれに「近似するため」に奏される、という「不自然な状況」が発生する。

指揮者がテキスト読解の第1水準に準拠している時、このようにして演奏行為に於いて「正義のニュアンス」といったものが横行するようになる。さらには、こうした「正義のニュアンス」が逆行して、ある種の根拠を帯びて一つの形態をとるようになり、「現実化」するような事態も発生する。これが「正しい演奏」という概念である。「正しい演奏」の概念は、時代によって、文化背景によって、実に様々な「表現の形態」を取り得る。この世の中には、この手の「正しい演奏」の亡霊が実に「充ち満ちている」といっても良いくらいだ。それだけテキスト読解の第1水準に準拠するという「スタイル」は、今の世に蔓延っているのである。

「楽譜に忠実」な演奏などというのは、その最たる一つであろう。テキストには一種類の「完璧な読み」以外ありえない。それこそが「作者の意志」なのであるから、表情記号や速度指定に至るまで、できるだけ「忠実な再現」こそがその「神の意志」に適うものなのだ、というのだから、これはいわば「テキスト原理主義」なのであろう。そのように聖典の「純化」を図ることは、実際には聖典の「無限性」を「毀損している」という事実には、彼らは決して気付かない。気付かないだけならまだ良いが、彼らはそのような反論を「聞く耳を持たない」ことが多いし、下手をするとそうしたものを徹底的に憎んで、その存在を「排除」しようとする(と、いってもまさかテロに走ったりはしないだろうけれども)から「始末に負えない」のである。「どちらがより神の意に近いのか」という競争ごっこで「優位に立つ」ことが、自分の「地位」を高め、「他者の威圧」に有効だと知っている者は、決してそれを手放そうとしない。しかしレヴィナスの言うように、「神の裁き」という共通原理が全ての人間に通底しており、私が正しいか、あなたが正しいか、結局は「神」がはっきりさせて下さる、と皆が考えるようになるとき、そこには「倫理」は機能しなくなるのである。原理主義とは、その意味でいうなれば信教・芸術の「自殺」に他ならないのではないだろうか。

「正しい演奏」はまた「原典主義」という、楽譜というテキストそれ自体の「出自の正当性」の主張として現れてくることもあるだろう。新約聖書と旧約聖書はどちらが正しいか。或いは、マタイ伝とヨハネ伝はどちらがより真実に近いか、というわけだ。もちろん、楽譜に於いては「作曲者の意図に近いもの」が「正解」とされるわけなのであるわけなので、弟子達や演奏家達などによる「改訂版」はイコール「改悪版」だ、と十把一絡げにされてしまうし、「補筆」や「大幅な演奏カット」などはそれこそ「論外」なのであって、そのような振る舞いには容赦なく「死刑」が宣告されかねない風潮ですらある。下手すると「リピートの省略」のような、現場の雰囲気に即して昔から「習慣的」に行われてきたはずの行為さえ「有罪」に問われかねない勢いである。その一方で、作者自身によって「あの『初稿』は政治の介入によってやむを得ず意を曲げて書いたものだ。後に改訂した版の方が、実際には私の真意を反映している。」などという「暴露ばなし」が、作者の死後に「遺言」として出版されたりすることもあったりして、こうした話は一筋縄ではいかないのである。じゃあ、それまで賞賛されていた「作者の真意を反映した初稿の素晴らしさ」とやらは、どこへいっちまったんだ!つい昨日まで、改訂版は「改悪版」じゃなかったのかよ!!などと、原典主義者の懊悩は「尽きない」のである。

ウィーン風、東ヨーロッパ風、というような「演奏風土の地域性」や「演奏解釈の伝統性」とでも呼ぶべきものも、こうした「正しい演奏」主張の「ヴァリエーション」と考えて良いものだろう。ドヴォルザークの音楽はチェコ風のイントネーションで、ヨハン・シュトラウスのワルツはウィーン訛りに演奏されるのが「本来」である、というようなヴァリエーションが、それにあたる。かくしてウィンナワルツは、ウィーン・フィルのニューイヤー・コンサートに於ける「お家芸」と化し、「新世界」はチェコ・フィルの「伝統芸能」と化してしまう。伝統を固守すること、いつまでも変わらないことの「価値」として、その「正しさ」は語られる。しかし、それが「変わらないこともまた、良い」というのではなく、「変わることは即ち良くない」と硬直化するとき、それは作品演奏の安易な「形骸化」を招くことになるだろう。この手の「変わらない正しさの主張」もまた、容易に偏狭な「ナショナリズム」と結びつきやすいことが明らかである。「この曲は、もともとおらの村ので産まれたもんだ。そったら贋物の演奏で、おらが村を汚さないでもらいてぇ。」すべてを同じやり方で蹂躙するアメリカン・グローバリズム(それはそれで問題があるのだが)への「アンチテーゼ」として、こうした語り口は「熱烈な支持」を受けやすい。しかし、そうしたものの土壌の上に、ヒットラーやらムッソリーニやらが芽吹き成長していったことも、また「事実」であったことは忘れてはなるまい。

20世紀後半のオーケストラ界に吹き荒れた「オリジナル楽器による演奏」や「時代考証の正しい演奏」といったものも、そうしたものの一つと考えて良いだろう。モーツァルトの音楽を演奏するには「彼が作曲当時に実際に聴いていた器楽の響き」で奏することが必要で、それによって「本当の響き」を取り戻すことができる、といった類の「テーゼ」の向こうには、作曲者「モーツァルト」が作曲していた当時頭に思い浮かべていたと「想定される音楽」こそが、その楽曲演奏の「正解」である、というテキスト読解の第1水準に「特有」の思考法(信仰というべきか)が透けて見えているのである。1950年代にオランダを発祥の地として広がったこうした「オリジナル楽器による演奏の再創造運動」は、あっというまにヨーロッパ中に燃え広がり、今では世界中にオリジナル楽器による演奏を行う演奏団体が「溢れかえる」ような有り様である。グスタフ・レオンハルトやニコラス・アーノンクール、フランス・ブリュッヘンといった第1世代らは、もはや現代の「巨匠」的な地位まで上り詰めたと言っても過言ではないだろう。バッハやヘンデルといったバロック期の音楽はもとより、モーツァルト・ベートーヴェンのような古典派音楽の多くの演奏解釈やスタイルに、オリジナル楽器による演奏の影響が既に相当なところまで浸透しており、下手をすると「現代楽器でバッハを演奏する」などという行為そのものが「罪を問われかねない」雰囲気さえあるように感じられる。僕自身はいわゆる「古楽器」というものの多くに、今の楽器が喪った「音色」を感じて愛おしく思っている者なのだが、その僕にしてさえ「オリジナル楽器」によるオーセンティック(=正統的な、とはよく言ったものである。)な演奏で「ありさえすればよい」という風潮には、まったくうんざりである。

以前、小澤征爾/齋藤記念オーケストラの面々がヨハン・セバスティアン・バッハの「マタイ受難曲」を演奏するのを聴いたことがあるのだが、彼らはその演奏にあたって「正しい時代考証」を得るために、バッハの音楽学者として高名な礒山雅の「講義」を事前に受けたのだという。このような「発想」こそが、テキスト読解の第1水準を象徴するものである。彼らは実に「真面目」なのである。真面目に、誠実に、彼らは「正しい演奏」を追求しようとする。しかし、バッハの残した「テキスト」の背後に、バッハ自身がその作曲時に思い浮かべていた音楽、という「正解」を夢見ている限り、そのテキストは「意味を開示」することをやめ、ただ一つの「正解」に向かって「縮減/縮小」してゆくことにならざるを得まい。

誤解の無いように述べておけば、僕は礒山先生の「講義」そのものの内容を批判するつもりは全くない。バッハ学者としての礒山雅の仕事は実に「気合いの入った」ものなのであって、彼がバッハの「魂」を求めて、様々な尽きせぬ探求を行っていることは、その専門書を見れば本当に良く伝わってくるのである。そうした延長線上に、学者としての礒山が考えるところの「こう演奏したらバッハは面白くなるのではないか?」というバッハ演奏があるのであって、礒山はそのためにいずみホールでバッハの演奏会シリーズを「企画」したり、新聞紙上で演奏批評を展開したりしているのであろう、と思う。

礒山を小澤に引き合わせたのはヴィオラの今井信子だそうだが、おそらく、こうした礒山の「バッハ演奏への言及」を彼女は充分知っていたのであろうと思う。でなければ、いくらなんでも演奏会前にこんな付け焼き刃に「講義」を企画して、自分たちの演奏に「即席に反映」させようなどとは考えつくまい。多分、今井的には「どうせバッハをやるのなら、とことん『ちゃんと』やらない?凄くバッハ研究の熱意があって、演奏にも一家言ある面白い先生をわたし知ってるから」と、「前向きな気持ち」でメンバーに礒山を紹介したのだろうとは思う。しかし、バッハ演奏の最先端の「正解」を求めて偉い先生の講義を拝聴しよう、という「発想そのもの」が、既に礒山のバッハ研究を「決定的に」損なってしまっているのではないだろうか。

あらゆるバッハ研究は、バッハの音楽の「新たな断面」を見出すことにその本質があるのであって、バッハの全てが「わかってしまう」ために行っているわけではない。バッハ自身にすら、そんなことは「わかりっこない」のである。礒山のバッハ論も、それが「研究」の体裁を為しているために、まるで声高らかに「正解」を主張しているように思えてしまうのかも知れない。しかし逆に、礒山の研究は「あなたこそ正しい。あなたの言うことこそがバッハの全てだ(真理だ)」と見なされるようになることで「死んで」しまうはずなのである。バッハが「礒山のバッハ観」によってしか「見つめられなくなる」ということ。そのようなことのために礒山はバッハ研究を展開したのだろうか。そうではあるまい。ユダヤ教のラビ達が聖句を駆使することで「猛然と」自己主張しつつも、決して他のタルムード解釈を「排除」せず、論理的に考察可能となった全てを「併記」することを怠らなかったように、礒山もそのようなバッハ研究の一角に参加し、バッハという音楽に秘められた真理の「無限性」を証明しようとして、その研究を行ったのではなかったか。研究はそのように読み解かれなければならない。その「成果」は「こういうバッハも面白いな」であらねばならないのであって、「バッハとはこのように理解(演奏)されるべきだ」であってはならないのである。

だから、礒山の研究を読んでみて「面白そう」だと思い、実際に礒山を呼んで講義してもらってみると、どうしても実際にバッハを「やってみたくて」たまらなくなり、結果として演奏会を「開いてみる」ことにした、というのなら僕にも理解できる。だが、彼らは「バッハを演奏する」ことを決めてから礒山を「担ぎ出した」のであって、礒山の講義を聴いてから「バッハを演奏してみよう」と思ったのではあるまい。彼らは、齋藤記念が「バッハを演奏する」ことのために、バッハ研究の権威を呼んできたのである。齋藤記念はバッハ一つにとりくむのにも、(他の団体と違って)こんなふうに根っこから真剣に取り組んでいるんですよ、というわけだ。これはバッハ研究への「荷担」ではなく、そのバッハ研究に寄せられた「世評」や「名声」の「流用」に他ならない。これは、単なる「順序の逆転」では決してない。その「逆転」にこそ、行為の「真実」が顕れてしまっているのである。彼らは「バッハ演奏の真実」を見出すために演奏したのではなく、「正しいバッハ演奏」を行ってみせようとした。小澤と齋藤記念のメンバー、それに残念ながら礒山自身も、やはりそのことに「気付いていない」のではないか、と僕は疑うのである。

バッハ演奏が何故「オリジナル楽器」によって行われるのか、という礒山の講義を聴きながら、他ならぬ「現代の楽器」を操らねばならなかった齋藤記念オーケストラのメンバー達。彼らにとって、その講義には何の「意味」があったのだろうか。まさか、「今さらバッハを現代楽器で演奏するなんてねぇ」という、彼ら自身の中にある謂われ無き「引け目」を少しでも「誤魔化す」ためであったのではあるまいな、と僕はそれこそ「余計ないちゃもん」をつけたくなってしまう。キリスト教解釈に基づくバッハのフレージングの有り様はかくあるべきだ、という礒山の講義を受けて、小澤自身は「自らの求めるフレージング」とどう折り合いを付けたのだろうか。それとも、そもそもそのような「自らの求める声」は彼の中には「存在しない」のだろうか。それとも「正解」のために、彼はそれを「殺害」してしまったのだろうか。

このようにして、「正解」を求める演奏行為というものは、生真面目であろうとすればするほど、真剣であろうとすればするほど、その「生命」を喪失することとなる。結果として眼前に現出した、この全く「生気に欠ける」バッハ演奏を聴きながら、僕は「正しいこと」の空しさを痛感しつつ「ぐったり」してしまうのである。「私は正しいバッハなのですよ」ということが、その唯一の主張である演奏。演奏は、そのようにして「生きながら埋葬」されてしまうのだろう。

さて、このことと逆に、指揮者に内在する音楽がテキストから「第2の水準」によって読みとられたものであった場合、即ち指揮者と作品(作曲者)とが、レヴィナスのいう「私/他者」の水準で関係している場合はどうであろうか。

指揮者は既に、作曲者自身が「自分が何を欲望しているか」を「知らない」ままその作品を創作したのだ、ということを「知って」いる。だから、そのとき「作曲者そのものに近似する努力」などというものは、全く無意味だということになる。指揮者はただ、その「テキストそのもの」に正対するのみである。どのように努力しても、指揮者はそれを「十全に理解する」ことはできない。それはテキストを前にした「あきらめ」ではなく、テキストの無限性を毀損しないための「作法」なのである。指揮者は「理解できないもの」を残したまま「テキストと向かい合う」ことを余儀なくされるのだが、それでもそのテキストと関係することに怯まない。理解できないまま(その不全感に耐えて)、まずはそれを「受け入れよう」とすること。それがレヴィナスがいう「愛する」という、第2の水準に特有の対象関係の「有り様」なのである。

このような指揮行為が行われているとき、指揮者はその演奏を照合すべき「正解」のイメージを持ち得ない。指揮者の中にあるのは、ただ彼がテキストから聴き取ったもの、それだけだ。それは彼が「他者」としてのテキストを仰ぎ見て、彼独自のやり方でテキストから汲み出したものである。そして、それは他の読解(解釈)と「比較」したり、距離を「測定」したりすることができない。彼は「これで良いのですか?」と、作曲者に向かって尋ねることはもちろん、他の誰に向かっても「答えを求める」ことができないのである。奏者達に向かって「ストップ!そうじゃない。」と言葉を発するときにも、指揮者は「何故そうじゃないのか」を「正義の語法」で語ってみせることはできず、ただ正直に自分の胸に手を当てて「心の裡」をまさぐってみるばかりだ。指揮者のテキスト読解に「正当性」を与え得るものは、どこにも存在しない。このように、テキスト読解の第2水準にあるとき、指揮者は「孤独」なのであり、またそのことによって唯一無二の「独自性」を主張するのである。

指揮者が孤独に耐え、自らの独自性の裡に留まりながらテキストと対峙しているとき、指揮者の発するコメントは、自然と「不明瞭な(だが含みの多い)もの」とならざるを得ないだろう。奏者に対する言葉は「そのように演奏してみて欲しい」という「要請」となり、「こう演奏するべきだ」といった指示的な色彩を喪ってくることだろう。それは指揮者自身というよりもむしろ、その中に内在している音楽の「有り様」が、そのように「要請」しているのである。

いつしか、指揮者は自分が指揮していながら、自分がそれを「コントロール」しているのではなく、その「作品」が「自ら語りはじめる」かのような感覚を覚えはじめる。指揮者からではなく、奏者達からでもなく、ただそこに音楽が「自生」するような感覚。その音楽の生き生きとした「生命感」が、指揮者に対して「これでよいのではないか」と、告げるのである。それは「正解を射抜いた」という感覚ではない。自分も未だ理解していなかった「そのように演奏したかった」という音楽がそこに実現していること。つまり、そこに「知らなかった自分の欲望」が実現しているという感覚。テキスト読解の第2水準に於いては、演奏の「正しさの感覚」は、そのようにして指揮者を訪れるのである。

指揮者はそのようなものを「聴き取ろう」として、今流れ出つつある「実音」にじっと耳を澄ますだろう。このようなとき、指揮者は「実音の流れ」を妨げることを嫌う。ましてその実音を細かく「修正」するようなことは、なおさらである。指揮者はこのようにして演奏を細かく止め、批評し、修正するという行為を「放棄する」ようになるのである。音楽は「大きなまとまり」で連続して奏されることになる。そうしないと、音楽に現れているものを「全体的に感じ取る」ことができないからである。いつしか音楽の流れは、今具体に行われている指揮者の「意志」に基づく「指揮行為」によって奏されているのかどうか、まったく不明瞭となっている。そのとき音楽は、ただそのテキストの意志(のように思えるもの)に基づいて、指揮者の棒を通して湧き出し、奏者達を静かに支配して「魔法の創出」を行っているように見える。

さて、今回もレヴィナスの二項関係の有り様についての「決定的に異なる二つの水準」という考想に基づいて、指揮者がいよいよ「指揮を開始するシーン」について想像を巡らせてみた。指揮者に内在する「読み込まれた作品(解釈)」は、その「テキスト読解の水準」の違いによって、その指揮者の指揮活動を実に「決定的」に左右する。そのことを、かなり具体的な想像を働かせながら述べてみた。

指揮者が作品と向かい合うとき、そこにどのような「テキスト読解の態度」を持ち込むかによって、そのテキストが「開示する内容」は大幅に異なってくるだろう。そればかりでなく、そのようにして指揮者に内在した作品(解釈)は、その後の指揮にあたっても「微妙な影響」を及ぼし続けることだろう。演奏活動が実際に具体的に展開する「それ以前」に、そのようにして指揮者という存在は既に「支配」されている。レヴィナスのいう「他者」との関係を、取り得るかどうかによって、あらゆる指揮者達は二つの大きな水準の「こちら」と「向こう」に、もはや「超えようのない深淵」でもって「隔絶されている」のではないだろうか、と僕は考えている。

さて、次回はいよいよ(ようやくというべきか)「演奏活動そのもの」について語ることにしようと思う。演奏という行為は、対話という行為と少し似ている。その生成と進展は、意志の力によってコントロールされているようでいて、実は無意識の作用している要素が非常に大きいのではないかと僕は考えている。そこをヒントに語り始めることにしてみよう。ではまた。

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