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音楽を求めて 10〔大石 聡/2006.1.18〕

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第10章 作品を読むということ。テクスト読解の二つの水準について。

前回は「指揮・指揮者そのもの」というものに焦点を当てるために、「指揮者になる」ということ、その「教育」というものについて取り上げ、考察してみた。教えるもの/教わるもの、という二項関係において全く異なる「二つの水準」がある、というエマニュエル・レヴィナスの考えを援用して、指揮者教育というものにも異質な二つの水準があり、そこから産み出される指揮・指揮者というものにも、必然的に二つの異なる水準があるのではないか、ということを僕なりに指摘した。今回はまた視点を変えて、指揮者が「作品(総譜)を読む」という行為について焦点を当ててみようと思う。

指揮者には、指揮という具体的な「動作」や「動き」だけに留まらない、さらなる「何か」が内包されている。その全てが「指揮」として機能するのであって、指揮技法や指揮動作はその「一部」にしか過ぎない、ということをこれまで僕は述べてきた。では、その内包されている「何か」とは一体何だろうか。指揮者その人の「個性」或いは「人間性」だろうか。それとも、演奏行為にかけるその人の「信念」や「情念」といったものだろうか。そのような、曖昧ではっきりとは捉えられれないものも、確かに影響するのかもしれない。しかし、ここでは「それ以前」のものとして、指揮者の行う「作品解釈」という行為を取り上げてみようと思う。いうまでもなく指揮者は、オーケストラとその曲を演奏する前に、その作品を事前に「読む」ことによって、その作品を自分の中に「再現」或いは「再構成」しているのであって、それに基づいて指揮者は「指揮」という行為を行うのである。指揮者の「個性」や「人間性」などといったもの以前に、その「読みとられた作品そのもの(解釈)」こそが、指揮者の中に確実に存在する「何か」であるに違いない。

楽譜とは、一種の「テキスト」である。小説や、戯曲といった作品が、ある種の物語や個人的感興、或いは舞台芸術「そのもの」ではなく、ただの紙面に書き付けられた「文字」の羅列に過ぎないように、楽譜もまた「音楽そのもの」では、ない。それは、ただ二次元的に記述された「音符」という記号の羅列、即ち「テキスト」である。読者がテキストから小説として「表現されたもの」を読み取るように、演出家がシナリオというテキストから「劇的構成」を読み取るように、指揮者は楽譜から「音楽そのもの」を読みとろうとする。それは、その楽譜を書き付けたそのとき、作曲者の頭の中で鳴り響いていたであろう「音楽そのもの」を、作曲者が「楽譜」というテクストに「変容(記号化)」するのと、ちょうど鏡合わせに「逆」の働きをしている作業だと考えられる。しかし、作曲者と指揮者は「別の人間」なのであるから、その作業は「録音の再生」のように、同じ機械的過程の「逆行」という形では行われない。それは、作曲者と指揮者という、二人の人間の間に生じる一種の対話、つまり「コミュニケーション」として生じるものなのだろうと、僕は推察する。本を読む、ということが、読者と作者の間に生じるある種の「コミュニケーション」であるのと同じような意味あいで、である。

このように「テキスト読解」という行為は、結局は、異なる二人の人間の間に生じる「コミュニケーション」だと考えることができよう。と、すればだ。それが二人の人間の「関係」として生じてくるものなのであれば、対人関係の二項の有り様によって、そこには決定的に異質な「二つの水準」が存在するだろう、と喝破したレヴィナスの先生の「あの考想」が、ここにも再び適用できるのではないだろうか。前回と同様、ここでもレヴィナス先生の考想を援用して話を進めることにしよう。

レヴィナスのいう、対人関係の二項の有り様の「決定的差異」というのは、「私/他者」「自我/他我」という二種の関係の「水準差」のことであった。レヴィナスのいう「他者」とは、「私」にとって何の共通項も持たず、理解することも、比較することも、想像することも絶したもの、であった。「私」と「他者」との間には「共通の度量衡」が存在しない。それは「私」にとっての「神」にも似ている。「神」とは人間との比較に於いて語ることが出来ないもの、である。それは「定義」や「比較」を拒絶する。それはただ「信じる/受け入れる」か「殺す/拒絶する」しかないものである。そのような両極端の対処を迫るものとして切迫してくるのが「他者」なのであり、人は他者に対する時、相矛盾する二つの情動を同時に切迫した形で体験させられる。その両極端の情動を「同時に満たす」ようなコミュニケーションの有り様のことを「ただ一語」に尽くす述語として、レヴィナスは「愛する」という言葉を定義している。

これに対して、レヴィナスのいう「他我」とは「私」にとって自分の「延長線上」にあるもの、である。つまり、それは私とは「違って見え」るかもしれないし、私にない「未知のもの」を所持しているかもしれない。しかし、私がそれを取得し、変容を繰り返していくことによって、いずれは「そうなる」ことが出来る者、それが「他我」である。自我/他我は、共通の度量衡上に存在している。それは比較可能であり、どちらがどのように優れているかを「比較定量」でき、どの程度隔たっているか「測定」し得るものである。自我と他我は、そのような共通の度量衡に基づいて「契約」したり、一方が他方を「支配」したり「服従」したりする関係である。つまり、僕たちの住んでいる世界に「現実に充ち満ちている関係」の有り様のことである。そこでは「愛」ではなく「正義」が語られる。互いの「平等」が語られ、その平等を破ったものには「法の裁き」が「正義」に基づいて与え得ると「信じ」られている。そして、その「信仰」が続く限り、そこには「倫理」というものは発生しない、というのがレヴィナスの考えなのである。

さて、このようなレヴィナスの対人関係の二項の有り様の「決定的差異」は「テキスト読解(つまり楽譜を読む)」という事象に於いて、どのように現れるのであろうか。

テキストは「他我」によって書かれたものであり、それは「自我」であるところの「私」が、(共通の度量衡に基づいて努力すれば)十全に「理解可能」なものである、というのがテキスト読解に於ける「第1の水準」の有り様だろうと思われる。こうした考え方を推し進めていった先の極限の「例」として、「作者自身」がその「作品」を語る、というシチュエーションを挙げることができる。「作者」とは、その作品を生成するときに「テキストへの変換」を行った張本人である。であるとすれば、それを読解すること(=テキストの解凍)は、張本人たる「作者自身」によって行われるときに、最も「正確」に行われ得るのではないか。「他我」とは他人でありながら、私という「自我」が努力と変容を重ねてゆくことによって、いつか到達することができる「私」のことである。だから、このようなテキスト読解の「第1水準」に於いては、指揮者たる「自我」の延長線上の極限には、作曲者という「他我」というものが、いわば「到達点」として横たわっており、その一点が「正解」という極点として認識される、ということなのである。ストラヴィンスキーが、自作であるところの「春の祭典」を指揮する、というエピソードなどは、そのことを考えてみる上での「恰好の実例」となり得るだろう。

ストラヴィンスキーの指揮した自作の演奏は「決定的名盤」足り得るか、というのはこれまで好んでクラシック・ファンの間で語られてきた話題である。「春の祭典」は、ストラヴィンスキー自身が、かつて自分の中に響いていた「音楽」を楽譜という形に「変容(記号化)」したものである。だとすれば、ストラヴィンスキーという人間自身がその楽譜の「解凍」を行えば、正確極まりない「解凍」が行えるに違いない、という考えが、その背後には「透けて」見える。このような「考え」は、作家に対するインタビューなどでも(未だに)かなり頻繁に遭遇するものである。つまり「あなたは、どのようなことを訴えたくてこの作品をお書きになったのですか?」と、いったような質問が、そのような「考え」を象徴しているものである。以前、村上龍がインタビュアーにこのような質問をされて、苦り切った表情で「それがわかれば苦労して小説なんか書きゃしませんよ」と吐き捨てるように述べていたのをTVで見たことがある。まことに、もっともな言い分である。

現代の文芸批評の世界に於いて、さすがにこのような「作家が自作のことを一番良く知っているはずだ」といった信念に基づいた批評は、既に棄却されつつあるように思われる。「村上龍はこの作品を通して、このようなことを語りたかったのではないか」といった文芸批評は、スタイルとして既に絶滅しつつあるのだ。何故なら、作家自身、自分が何を書きたくてその作品を書いたのか「知らない」という「事実」が明らかになってきたからである。人は、自分が本当に何を「欲望」しているのか、知り得ない。それは20世紀に於ける最大の発見の一つ、ジグムント・フロイトその人の知見であった。彼による「無意識」の発見は、それまで人間が単純に「自明」だと思いこんでいた「己が自分のことを一番良く知っている」という思いこみを、木っ端微塵に粉砕した。そのことによって、20世紀後半の文芸批評は「作家が何を語ろうとしたのか」から「作家は何を(無意識に)語ってしまったのか」というスタイルに推移せざるを得なかった。人は、自分が何を「欲望」しているのか知らない。だからこそ「それを明らかにしたい」と人は取り憑かれたようにテキストを書き綴るのである。テキストを書くことによってのみ、作家は自分の欲望が何であるかを知ることができる。その順序は逆ではないのである。

ストラヴィンスキーの指揮解釈による「春の祭典」の演奏は、やはり「面白くない」と僕は思う。多くの人々がそれを「彼は作曲者としては優れていても、指揮者としてはその技術が稚拙だから」と説明する。しかし、本当は「そうではない」のではないか。「春の祭典」は確かにストラヴィンスキーの「作品」である。しかしフロイトの知見によれば、ストラヴィンスキーは作品としての「春の祭典」が仕上がる以前には、自分がどのようなものを「欲望」しているのか「知らなかった」のである。彼は創作という「欲望」には取り憑かれていたが、自分の欲望するものが「分からなかった」からこそ、それを明らかにすべく実際に「創作」に没頭したのである。「春の祭典」という作品が生まれ、それが幾多の名演奏として「実演」され、人々がそれに熱狂する有り様を見て、彼は初めて自分が「何を欲望していたのか」を思い知ったのではなかったか。このように考えれば、彼の「欲望したもの」は、「春の祭典」という「テキストの中」にこそ「最も純粋な形」で存在しているのであって、ストラヴィンスキー「その人の中」には存在しない、ということになる。だから「春の祭典とは何ですか」などとストラヴィンスキーその人に尋ねてみても仕方がないのである。にもかかわらず、ストラヴィンスキーは自分でも「私はこの曲を誰よりも良く知っている」と思いこんだまま、自らの作り出したテキストにきちんと向かい合うことなく、安易に演奏行為に至ってしまった。そこにこの演奏の「つまらなさ」の根本が潜んでいるのではないか。僕には、そのように思えてならないのである。

テキスト読解の第1水準に於いては、「他我」のテキストを「自我」は努力次第で「理解し得る」のだ、という「確信」が自明のものとして存在している。「自我」と「他我」との間には「共通の度量衡」が存在しており、「自我」は知識を獲得し、能力を向上させることで限りなく「他我」に接近でき、それにつれて「他我」同様にそれを理解できるようになるというのである。そして、その極限的な延長線上には、「他我」の制作した作品は「他我」自身によってこそ「最も正確に」解釈できるはずだ、という見解が横たわっているのである。このような「テキスト読解」には、実は「作者自身による解釈」という「正解」が存在することになるのである。テキストには、ただ一つの純粋なる「正しい意味」が内在しており、「自我」がいつか「他我」を理解できるように(もしくは「他我」そのものに「なれる」ように)、「私」はその「正解」に到達できる。このような読解のスタイルこそが、テキスト読解の第1の水準の「正体」なのである。

さて、これに対して、テキストは「他者」によって書かれたものであって、それは「私」がどのような努力を持ってしても十全に「理解不可能」なものである、という認識の有り様が存在する。このような「理解不能性」に立脚したテキスト読解、それがテキスト読解の第2水準にあたるものである。

「私」はそれを「理解」することはできない。それを制作した人は、空間的にも、時間的にも、文化的にも私とは「隔絶」された存在であり、その思考するところや感じるところを、私は安易に想像することで手に入れることはできそうもない。しかし、そこにそのテキストがあり、私はそれに「魅了」されていて、どうしてもそれを「読み解きたい」と欲望している。このような態度でテキストと向かい合うとき、テキストは「私」に向かって、それを「信じる/受け入れる」か、それとも「殺す/拒絶する」か、二つに一つを今すぐにでも選択し、明らかにするように激しく私に向かって「切迫」してくるように感ぜられるのである。その両極端に引き裂かれた対象との有り様から「逃れる」ことなく、その両極端を「同時に満たす」ようにテキストと向かい合うこと。つまり、そのテキストをレヴィナスのいう意味で「愛する」こと。絶望的にわからない。でもその「わからなさ」に耐えてテキストの訴えることを信じ、受け入れようとする。「分からない、でもあなたに魅了されている」という不可解な「引き裂かれ」に耐えつつ、それでもテキストの訴えるものを「志向」し続けること。それがテキスト読解の「第2の水準」の有り様である。

このテキスト読解の第2の水準に於いては、テキスト読解に「正解」というようなものは「原理的」に存在しない。むしろ「正解」というものに「到達しないよう」に「永久に読解を続ける」ことが、この第2水準のテキスト読解の基本スタンスなのである。弟子という存在が永久に「師」の境地に到達できないように、或いは「到達できない」というものを「師」と見なすことが「師弟関係」の定義であるように、テキスト読解に到達できる「正解」を設定しないこと。テキストを「正解のないもの」と見なすことによって、その「無限の意味」を保全し、「永久に」そこから意味を「汲み出し続ける」こと。それが「他者としてのテキスト」と向かい合うスタイルである。

レヴィナスは、そのようなテキストとの向かい合い方を、ユダヤ教の律法注釈書教典である「タルムード」の読解から学んだのだという。ユダヤ教に於いては、ミシュナーという律法書(口頭伝承を集成し書写したもの)が紀元2世紀頃成立したとされ、それがゲマラーという5世紀頃に書かれたテキストの中での議論の「主題」となったとされている。その上に、10から11世紀にかけて「ラシの注解」というものが付加され、さらにトサフィストと呼ばれる人々によって「限りない註解」が加えられていくのだが、これらの註解に次ぐ註解のまとまりない集成体が「タルムード」と呼ばれる「聖典」なのだという。タルムードでは、一つの問いに対して何人ものラビ達がさまざまな註解を展開する。「祭礼の日に生まれた鶏卵を食べる権利を有するのは誰か」といった極めて具体的な問いを巡って、ラビ達は聖句を駆使して猛然と議論する。議論の大半は、合意点を見出すためというよりもむしろ「さらに議論の混迷を深めるために」為されているように見える。そして、議論の末に退けられた見解であっても「一つ残らず」記録に留められるのである。まるで一度でも思考された、あるいは「思考可能になった」ことは、決して「消去されてはならない」とでもいうように。異論は全て「併記」され、議論(マハロケット)は決して「最終的な合意」には至らない。そうすることによって、タルムードの叡智は「無限な仕方で開放されてある」ことが保証されているのである。

タルムード解釈の基本は「口伝」である。「師」から「弟子」への「顔を見合わせての対話」を通じてしか、タルムードの歴史的継続性は保証されない。紀元2世紀にミシュナーが初めて「文書(書物)」として集成されたときにも、あるラビは「口伝律法を書き留めようとするものは、聖典を火にくべているに等しい」と激しく非難したという。印刷物としてのタルムードはただの印刷物なのであって、その状態ではただそれは「死んで」いるのである。テキストを、誰にでも「読解可能」で、意味の明瞭な(つまり限定された)「記号」だと見なす者に対しては、それは「叡智の扉」を開かない。テキストを精読し、それについての「データ的知識」をいくら積み上げても、それを註釈する資格は得られないのである。何故なら、そのようにテキストを読むことは、テキストを「有限」とみなすことに他ならず、それは「神の冒涜」以外の何ものでもないから(私は神がわかった!と述べることほど、神を冒涜する行為は他にありえまい)である。タルムードに於いては、「どれほどの知識を持っているか」ということよりも、その知識を「どのような仕方で伝授されたか」ということのほうが、遥かに重要である。自我/他我の水準ではなく、私/他者の水準でテキストと向かい合うこと。それが、そのテキストから「無限」を汲み出すための「作法」なのである。

このように、レヴィナスの考えに準拠してみると、「テキストの読解」という行為に於いても全く決定的に異なる「二つの水準」が存在することがわかる。指揮者が作曲者の残した「楽譜」というテキストを読むとき、どのような作法に基づいてテキストの読解という行為に取り組むのかによって、テキストが「開示するもの」は全く異なってくるのではないだろうか。

シューマンの2番の総譜を読みつつ、作曲家シューマンの書こうとしたこと(=正解)をそこに読みとろうとするだけの指揮者がいる。どんなに「真剣」に、或いは「誠意を持って」テキスト読解に臨んだとしても、指揮者がこうしたテキスト読解の「第1水準」に留まっている限り、その読解はある一つの「正解」に向けて縮小/縮減してゆかざるを得ない。その努力がシューマンという「他我」に近接していこうとするものである限り、その努力はシューマンに到達したところで「行き止まり」になってしまうからである。皮肉なことに、シューマンという「他我」を、私という「自我」は「理解可能である」と見なすことが、こうした結果を担保してしまっているのである。

テキスト読解の「第1水準」に於いても、或いは「多様な解釈」といったものが成立するのかもしれない。しかし、それらは結局のところ「正解−不正解」という一直線上に整列せざるを得ないような「不自然なもの」となることだろう。そこでは、あらゆる解釈は「正解からの距離」によって定位され、採点されることになる。それはそれで、ある種の「正解を目指す」という「ストイックな行為」だと思う人もあるのかもしれない。しかし、そこには真の意味での「芸術的な創造」は起こり得ない。そのような読解(解釈)達は、努力すればするほど「似通ったもの」とならざるを得ず、結果として指揮者解釈の「個性」などというものは、そこでは「死に絶え」てしまうからである。

一方で、作曲家シューマン自身は、自分が何を書きたかったのか(この作品ができるまで)わからなかったに違いない、と考える指揮者が存在する。彼にとっては、その総譜こそがすべての「叡智のありか」であり、作曲者シューマン自身さえそのテキストに「従属」している、と考えられているのである。テキスト読解の「第2水準」に在るこの指揮者にとって、総譜というこのテクストは、遥かに「仰ぎ見る」ものであり、永遠に「辿り着けない」ものでありながら、一方で(そのことによって)どのようなたくましい「想像」をも許容するものである。何故なら、どのような「珍奇」に思える読解(解釈)であっても、それはそのテキストの「無限性」を示すものに他ならないからである。

一聴して「これが同じテキストから導き出された音楽か」と驚くような、多数の異なった解釈が存在し、なおかつそのどれもがやはり「シューマンの音楽」に他ならない、ということ。そのことほどテキストの価値を「称揚する」事実が他に存在するだろうか。そして、だからこそ(例えば時代によって)否定され、また(例えば評論家によって)誤っていると断定された、「過去の読解(解釈)」でさえ、それを「消し去ること」は許されないのである。それらは一度は「可能になった読解(解釈)」として、永遠に「併記され続ける」のである。それらはテキストの「無限性」を褒め称えるものである。そのテキストの読解に新たに加わるということは、そのようにしてテキストの叡智の輝きを増すための「聖なる行為」に他ならないのである。

テクストにどのような「叡智」を見出すことができるのか。その「独自性」こそが「弟子」としての指揮者自身の存在を「意味づける」ものとなることだろう。弟子達は、その一人一人が「私だけが知る師の偉大さが在る」と思うことによって、他にかけがえのない弟子としての「自己」を位置づけることができる。そうして、それらの「多様な解釈」というものは、一義的な「測定」や「定位」を拒絶することになる。天空に輝くテクストのもとに、様々な解釈は地にばらまかれたように「一面に解離して」存在しており、その一つ一つは、ただそれぞれのやり方でテクストを「仰いでいる」ことだけが共通している。それらは「共通の度量衡」を有しておらず、互いに比較したり、距離を測定したりできないものなのである。

このように、総譜というテキストを読む指揮者の「読解水準の有り様」によって、総譜というテキストが開示する結果は「まるで違ったもの」にならざるを得ない。この二つの水準にある指揮者の「解釈の相違」は、一見すると単純に「個別の解釈の違い」として片付けられ、見過ごされてしまいがちなのだが、実際にはこれは「決定的な水準の相違」なのであって、両者は比較できないほど「巨大な断絶」で隔てられているのではないか、と僕は考える。指揮台に立つ指揮者という存在は、事前に彼がスコアを読むという行為によって、そこに内在するようになった「音楽(解釈)」のこの「決定的な質的相違」によって、音楽を開始する以前に既に決定的に「異なって」しまっているように、僕には思われるのである。

さて次回は、このような指揮者のテキスト読解の有り様の「水準差」というものが、実際の指揮場面においてどのように現れてくるのか、ということについて、もう少し具体的に考察していきたいと思う。

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