音楽を求めて 9〔大石 聡/2006.1.11〕
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第9章 指揮を学ぶことの今昔と、教育の決定的に異なる二水準について。
小西収とはどのような存在か、ということに端を発して、これまで小西収の指揮者としての有り様や、いわゆる「素人」指揮者というものについての考察、プロフェッショナルの、それもとびきり一流の指揮者達の「指揮技法」の有り様などについて、順次考察を深めてきた。その結果、指揮の技法というものは、狭い意味での「バトン・テクニック」というものに留まらず、動きそのものによらない「指揮・指揮者そのもの」といったものまでを含んでいる、といったことを見出してきた。今回は少し見地を変えて、そうした指揮を「学ぶ」ということ、つまりは「指揮者になる」ということについて、考えていってみようと思う。
指揮者というものになるために、どのようなことを学べばよいのだろうか。もう少し限定して「職業としての指揮者」になるための方法、というものはあるのだろうか。これはもちろん、ある。現代の場合のそれは、音楽を専門とする教育機関に於いて「指揮科」なるところで教官に就いて「勉強」すること。そこで好成績を収めて、教官の推薦を得て国際的に認知されている「指揮者コンクール」という登竜門にエントリーすること。そこで幾多の無理難題をクリアして、ライバル達を蹴落として入賞すること、などがそれにあたるだろう。現在では、そのようにして産み出される「マエストロの卵」が、ポストに対して過剰となっているため、コンクールに入賞するだけでプロモーションが成功し、プロの指揮者としてデビュー、という具合にはゆかなくなってしまっており、コンクール成功後にさらにプロフェッショナル・オーケストラに「定着」して腕を磨く、といった過程そのものが困難となってしまっているようだ。しかし、これが現代で言うところの「マエストロへの道」というものであるには違いない。
一昔前には(そう、先の世界大戦の前くらいまでは、というべきか)、職業指揮者というものはそのようには産まれていなかった。指揮者になるためには、何らかの「つて」を頼って、どこかの歌劇場付属オーケストラの「練習指揮者」として採用してもらい、「下振り」というオーケストラ・トレーナー仕事をさせてもらいながら、マエストロの様々な秘書件雑用係のようなことをこなし、楽譜の整理や筆写をしながら「楽曲の勉強」をしたり、親方の仕事をみて「盗ん」だりして仕事を覚え、徐々に徒弟制度の中から頭角を現す、というのが一般的なコースであったようである。日本で言うところの「(現場)叩き上げ職人」のようなものであろうか。このようなギルド制度による指揮者養成は、オーケストラの本場ヨーロッパ諸国に於いてもほぼ「消滅」した。もちろん、アメリカン・グローバリズムと資本主義的洗礼によって、音楽産業の構造が根本的に変質化したからである。
ギルド内での「徒弟制度」による「叩き上げ式職人教育」によって産まれる指揮者と、高度資本主義社会に於ける「学校教育制度+コンクール」による「エリート・マエストロ養成教育」によって産み出される指揮者との間に、何か根本的な相違点があるのだろうか?
もちろん、どちらによって産み出された指揮者にも「ピンキリ」があるのであって、一概にどちらから優れた指揮者が産み出される、というふうに結論づけられるものではないのだろう、とは思う。指揮者なぞというものは、結局は「才能」なのであって、真に指揮の「天才」というようなものが存在するのであれば、どちらの教育システムであっても(その才能をピックアップするシステムが正常に機能していればの話ではあるが)大差ないようなもの、といった意見もあるのかもしれない。しかし、実はこの二つの「教育システム」には、超えがたい「決定的な違い」が存在しているのであって、その片方からしか「決して産まれてこないもの」が存在する、というのが僕の見解である。このことは重要なポイントになる部分だと思われるので、少し「音楽」を離れることになるかも知れないが、迂回しつつ、焦らず、丁寧に説明してみようと思う。
教えるもの/教わるもの、という二項関係には二つの「水準」が存在し、それは決定的に異なっている、と説明するのはエマニュエル・レヴィナスである。フッサールの現象学に発して、ハイデガーに対する批判的検討から自説を展開したこの天才的ユダヤ人哲学者は「他者」という鍵概念を先鋭化させて、そこから「愛」「倫理」といった使い古されたテーマを鮮やかに蘇らせてみせた人物である。レヴィナスはこの「他者」の概念を説明する、比較的分かりやすい例として「師/弟子」という関係を示した。その対峙概念となるのは「教官/生徒」という関係である。
「私」にとって、何の「共通項」も持たず、理解することも、比較することも、想像することすら絶したもの。それがレヴィナスのいう「他者」である。「私」と「他者」との間には「共通の度量衡」が存在しない。比較し、対照し、距離を測定することができないのである。「他者」とは、ほんとうは「僕とあなた」のことである。しかし、我々は普段そのような認識に生きていない。僕とあなたは同じ「日本人」であって、クラシック音楽を愛好するフロイントの「仲間」なのであって、共通する度量衡、すなわち常識だとか趣味だとか志向だとか、そういったものをたくさん「共有」しており、「分かり合える存在」だということに「安住」しているわけである。しかし、レヴィナスはそれを否定する。そして、そこに無自覚に安住することの「危険」について語ろうとするのである。なぜなら、「他者である」という認識こそが、すべての「愛」や「倫理」を基礎づける「条件」だとレヴィナスは考えるからである。人間は分かり合える、あなたと私は「同じ」だ、という安易な関係性の構築から、あのナチスによる悲劇「ホロコースト」が発生した。それがレヴィナスの全ての思考の「原点」となっている。
「生徒」にとっての「教官」とは、レヴィナスのいう意味でのその「他者」ではない。「教官」は特定の量的に豊富な、しかし有限な「知」を「生徒」に先んじて有しているだけの存在であって、「生徒」はその「知」を獲得することで、最終的には「教官」と同等の立場に立ち得る存在である。「教官」は「勉強すればみんな私のようになれる」ということを前提に、教育を展開する。このような他者は「私」の延長線上にあるもの、つまり「自我」に対する「他我」でしかない。今は私とは違う者、私より優れた者かも知れないが、いずれ私もそうなることが出来る者。それが「他我」である。他我とは「いつか私がそうなる(かもしれない)私」のことである。このように見ていくと「他者」と「他我」は、まったく決定的に異なったものであることがわかる。
さて、レヴィナスのいう「他者」であるところの「師」と、「他我」であるところの「教官」は、どのように異なっているのだろうか。そして「師弟関係」から生じる「教え/教わり」と、「教官/生徒」関係から生じる「教授/学習」は、どのように質的に異なっているのだろうか。そのことについて、具体的な「実例」を交えながら見ていってみることにしよう。
「自動車学校の教官」という存在は、自動車の運転という「私」にとって「未知」だが「習得可能」な「有限のスキル」を有している存在である。「私」と「教官」の間には乗り越え不可能な断絶があるわけではなく、「私」は努力によって(運転免許が取得可能な程度の)自動車運転技術を習得することは充分可能である。「教官」と「私」の間には、その「自動車運転技術」という知識・技能の「水位差」が存在しており、またその「水位差」だけが「教官」と「私」を関係づけている。だから、教習というレッスンによって自動車運転技術の「伝達」が終了すれば、単なる「水位差」として存在していた「教官/生徒」関係は自然消滅することになるのである。
これに対して「師」は、弟子としての「私」からみて知識・技能などの「水位差」として測定することができない存在である。何故なら「師」とは、「教官」とは異なり、「私」にとって「理解不能」であるという認識によって「師」と認定される者だからである。
例えば、同じ自動車の運転技術であっても、F1レーサーの「それ」はただ努力すれば身につけられるといったものではない。自動車雑誌のイベントか何かで、僕がF1ドライバーから直々にサーキット走行のレッスンを受けることができる機会があったとしよう。アイルトン・セナ(もう死んじゃいましたが)は僕にとって「習得可能」な「有限のスキル」を有している存在とは見なされない。彼のいうこと、例えば「もっとそこはスマートかつクイックに」とか「コーナーはこれくらいタイトに」といったアドバイスは、僕には(悲しいことに)その意味することの10分の1ほども理解できないような代物である。しかし、まさにその時、セナはその「理解不能であるという認識」によって、僕に「師」と見なされるのである。彼のアドバイスの難解さを、僕は不合理と感じない。むしろ、その信じ難いほどの「幸福」な「理解できない授業」の中から「何か」をそこに見出そうと、僕は必死になるに違いない。一方で、自動車学校の教官のいうことが理解できなかったら、僕はどのように反応するだろうか。「そこの曲がり角、ちょっとタイトにいってみましょうか」とか、「いわゆるひとつのストライクなハンドル操作で」とか、そういう「わけの分からないこと」を指示する教官を、僕は決して認めないだろう。「ふざけんな。ちゃんと説明しろ!」と抗議するに違いない。その相違は、僕とセナとの関係がその時「師/弟子」の水準にあり、「教官/生徒」の水準にない、ということによって生じているのである。
このように、教官/生徒という関係水準に於ける「教授/学習」というものは、知識・技術の「水位差」を利用した「受け渡し」であることがわかる。このような「教授/学習」というタイプの学習法に於いては、ある一つの際立った特色が存在しているのだが、このことは意外と一般には認識されていなかったりする。それは、どのような特色であるのか?
それは、そうした教育の場には「努力」すれば誰もが理解し、習得することが可能であるような、そういう知識や技術といったもの「だけ」しか登録されない、という特色である。登録可能なもの、それはつまり「パッケージ」して管理できる知識や技能のことである。テストによってその受け渡しの度合いを「評価」したり「認定」したりできるもの。そういうものだけが、そこでは教育的に「価値あるもの」として認定され得るのである。言い換えれば、そこには「想像もつかないもの」だとか「わけのわからないもの」などといった代物は、侵入する余地がない。教官が偶然にも「そのようなもの」を有している人であったとしても(例えばその自動車教習所の教官は、実は凄い運転スキルを持っていて、その道の人たちには『裏六甲の狼』などと呼ばれているのかもしれない)、それは「教授/学習の場」に於いては、全くその「価値」が認定されない(「ふざけんな。わかるように教えろ!」と生徒から抗議されてしまう)のである。たとえ教官が優れていても、このようにそれを学ぶための「場」が設定できなければ、まさに「宝の持ち腐れ」となってしまう。ここに教官/生徒という関係水準に於ける学びの「限界」が覗いている。
これに対して、師/弟子という関係水準に於ける「教え/学び」というものは、教官/生徒という関係水準に於ける「教授/学習」とは違い、知識や技術の「水位差」を利用した、単なる「受け渡し」といったものではあり得ない。なぜなら「師」とは、「弟子」がどんなに「努力」したとしても「永遠に到達できない」ような叡智を備えたものだからである。
師/弟子の間には、単なる知識・技能の「水位差」程度の「測定可能な差異」が存在しているのではない。そこには、地上から星を仰ぎ見るが如き「到達不能な決定的格差」の亀裂が横たわっているのである。弟子と師との「距離」を測定する尺度は存在しない。だから、弟子の「学び」について、ゴールであるところの「師の境位」まで「あとどのくらい」かを示したり、その位置をテストすることによって測定したりできないのである。それどころか、どこまで到達すれば「合格」だと認定するのかも、そこでは定かではない。はっきりいってしまうならば、弟子は「永遠に合格認定されない」のである。
このような師/弟子の関係に於いて「学ばれるもの」にも、一つの際立った特色が存在している。それは、師/弟子という関係のうちに学ばれるものは、常に「想像もつかないもの」であり「わけのわからないもの」である、という特色である。このことは、教官/生徒の関係に於いて学ばれるものが、常に「理解可能なもの」に限定されていることと、まことに「対比的」であるといえよう。
このように、「師」は「弟子」によって、「無限の(よくわからない)叡智を秘めている」と「見なされている」存在である。しかし、それはただ「弟子」によって勝手にそう「見なされている」だけなのであって、「師」が実際にその「無限の叡智」を秘めているかどうかは、定かではない。第一、そのことはまだその「知」が備わっていない弟子には「わかりっこない」のである。にもかかわらず「弟子」が彼に「弟子入り」したのは何故なのだろうか。さらに考えてみるに、師/弟子関係は、教官/生徒関係と異なり、「契約」という概念では説明が不可能な関係である。契約とはいわば「理解可能なもの」を「対価」によって「受け渡しする」約束のことである(自動車学校のレッスン契約は、まさに金銭という「対価」による「自動車運転技術」の受け渡し契約だった)。しかし、師/弟子関係に於いては、そのような「約束」は一切交わされることがない。「師」は「弟子」に何も「約束」しないのである。それにもかかわらず、「弟子」が彼に「弟子入り」したのは何故なのだろうか?
人は何故、そのような不合理な関係に身を投じ、「わけのわからないもの」に師事するようになるのか。このことの不思議さについて、僕自身の例を元に説明してみることにしよう。
精神科医としての僕がユング師の「弟子」を自称する者であることは、既に述べた。僕が最初に「ユング」という名前に出会ったのは高校生の頃だったのだが、僕はその時、ユングという「師」の「素晴らしさ」について「思い知った」ことで、すなわち「ユングを理解した」ために弟子入りしたわけではない。むしろその逆で、僕はユングのことを「理解できなかった」のである。
僕とユング師を結びつけてくれたのは、河合隼雄氏の名著である「コンプレックス(岩波新書)」だった。当時僕は図書館の本を片っ端から読む、といういわゆる「濫読」に耽っており、その頃はたまたま、岩波新書の棚を上から順に漁っていたのである。高校生だった僕は、学校の教科書や受験参考書に飽き飽きしており、そうしたものから離れた「幻想としての知」を渇望していた。その時読んだユングの叡智としての「コンプレックス」概念は、そうした僕の「渇望」を癒すには、充分すぎるほど難解で、とてつもなく深い奥行きと、或る種の「オーラ」のようなものを備えていたように思う。コンプレックスといえばせいぜい「劣等感」といった程度の、貧困なイメージしかなかった当時の僕にとって、それは当たり前といえば当たり前である。しかし、その「難解さ」は僕を怯ませつつも、むしろそのことによって「何だかこれは凄い!」という「感動」を誘ったのである。「何だか凄ぇ!」とそのオーラにやられてしまった僕は、無謀にもユングの原典(もちろん和訳されたもの)に挑んだのである。それがユング師の代表的な大著である「元型論」だった。
正直言ってその内容は、何の基礎教養もない当時の僕にはまさに「ちんぷんかんぷん」でしかなかった。しかし、そこで引用されている、一見よくわからないグロテスクな「例え」の一つ一つが、僕を「身震い」させた。写真の一つ一つはたまらなく「うさんくさい」ようでもあり、また「魅惑的」でもあった。とにかく、それらは僕のそれまでの「語彙」や「想像力」の範疇に、全く存在しないもので構成されていた。そして、そこに恐らく僕の知らない「素晴らしい叡智」が隠されている、と僕は「直感的に認めた」のである。理屈も、何もない。まさに「びびっと来た」という奴である。そして僕はそのテキストから、あろうことか「不思議なメッセージ」が発せられていることを感知したようにさえ思った。それは、いわば個人的な「召還」とでも表現すべきもの、だったような気がする。分かりやすくそれを言葉にするならば、それは「このテキストは、他ならぬ『君』に向けて書かれたものだ。わかるまで、何度でも繰り返して読んでみたまえ」といったような感じだったと思う。
このようにして、僕はユングの「弟子」となったのである。その結果として、僕はあろうことか医学部に進学して精神科医となってしまい、精神分析的精神療法を実践しつつ、今でもユングを「師」と仰いでいる始末なのである。
僕はこのように、ユング師の言うことが「何が何だか分からなかった」ことによって、その弟子となった。僕は誰かの手引き(道ばたで誰かに勧誘されて教会に行ったりするような)によってではなく、全く偶然にユングを自分で書の中に見出し、自分自身の意志によってそれに「ひざまずく」ことによって、ユングという「師」を見上げるポジションに自分を置いた。一方的に、勝手に、全くの自己判断で、僕はその時ユングという「師」に、いわば「掛け金」を置いたのである。僕は決してユングその人に「弟子」と認めてもらって、「師弟関係という契約」を結んだわけではない。それは英会話スクールにするのでもないし、お茶を習うためにどこぞの家元に束脩を納めて「入門」するのとも、やっぱり全然異なっているのである。師弟関係とは、本来このように、いつも弟子が「勝手に弟子入りする」ことによって「発生」するのである。
もちろん、そこにはある種の「危険」が潜んでいることは否めない。師/弟子関係が、常に弟子の側の「一方的な片思い」によって発生するからには、その片思いが「誤解」に基づいている可能性も高い、ということに他ならないからである。もしかするとその師は何の「叡智」も持っていない、ただの思わせぶりなおじさんだった、という可能性もあるわけだ。でもまぁ、師がそんなただの「無能な愚者」であったならば、まだ良い。師と見なされたものが、ただの幻覚を見る精神病者であったとしても、そこに誠実な弟子が結集すれば、それはそれとして素晴らしい「宗教」が成立する可能性だってなくはないのである。しかし、それが「悪意を秘めた詐欺者」であった場合、弟子達は高い「ツケ」を支払わされることも有り得るだろう。オウム真理教に集った弟子達が、麻原の指示に従った結果として「殺人を犯した」ことの「精算」を、今になって求められているように、である。
このように師/弟子関係は、常に弟子の側からの一方的なラブコールによって成立するものであって、弟子は自らの「無能の覚知」によって弟子入りという行為を行うのである。師の叡智や優秀性が、弟子によって「理解された」ことによってそれは行われるわけではない。そこには弟子自身の「直感」と、勝手に掛け金を置くという「自己責任」が作用している。だから、そこには「賭け」としての危険な要素も存在しており、またその一方で、そのような「直感」と「自己責任」に基づいた「命がけの跳躍」であるからこそ、師/弟子関係に於いては、当人にとって「想像もできないもの」や「理解を絶するもの」が習得可能になる、という不思議なことが起こるのかも知れない。
「直感による賭け」は、確かに外れる危険性を秘めていよう。しかし、そもそも「想像もできないもの」や「理解を絶するもの」は、そのような「直感」によってしか探り当てられようはずがないのではないか。インターネットのようなデジタル化された世界で、キーワードを打ち込んで「検索/オーダー」するような仕方で入手できるのは、その人が既に「知っているもの」だけに限られている。キーワードも、その「内容」もわからないようなものは、そういうシステムではオーダーすることすら「不可能」なのである。そのようなものに出会うためには、ひたすら現実の混沌とした世界を「うろうろ」してみるしかない。そして「あれ、これって何だ?」という直感に基づいて、その不可思議を発している人や物のあとを追いかけてみるしか、それを入手する方法は存在しないのである。
「理解できない師に賭ける」というリスクを弟子が自己責任で負うことによってはじめて、師/弟子関係は「理解を絶するものを受け渡す」という、その本領を明らかにする。師/弟子という不思議な関係は、そのようにして「直感」と「自己責任」によって成立するのである。
このようにして得られた「師」は、「弟子」に対して、本質的には教授めいたことを一切行わない存在である。師は「何も示さない」のである。では、どうしてそこに「学び」というものが発生するのであろうか。最後に、師/弟子という不思議な関係に於いて発生する「学び」について、具体例に基づきつつ考察してみたいと思う。
弟子の「直感」は、師には「無限の(よくわからない)叡智を秘めている」と告げている。しかし、それはただ弟子によって勝手にそう「見なされている」だけに過ぎないのであって、「師」が実際にその「無限の叡智」を秘めているかどうかは定かではない。そして、実際には師は「無限の叡智」を体現している必要は、本当は「ない」のである。驚くべきことに、この「師」というものは「実体」がないのである。ただ「仰ぎ見られている」ことによって、それは「師」として機能するに過ぎない。逆に言えば、仰ぎ見られていさえすれば、それは中身が「空っぽ」でも構わないのである。それでもそれはちゃんと「師」として機能するのだ。「師」が「何も教えない」ままに(時には、師に教える能力がないままに)、弟子があるとき勝手に「何かを覚る」といった形で、その不可思議な「学習」は成立するのである。
この不可思議な「学び」というものの成立について、その実例を中世日本の能楽作家が好んで用いたある逸話に見てゆくことにしよう。(ちなみに、こうしたレヴィナスによる「師弟関係」という私/他者の実例について、僕は多くのことを神戸女学院大学の教授である内田樹先生のレヴィナスに関する解説から学んだ。この逸話のエピソードもそこから引用するものなので、さらなる詳細を知りたい方は内田先生の著作を参照されたい。)これは「張良」という曲で、中国は「漢」の時代の将軍でその武名をうたわれた張良という人物が、その若い頃に黄石公という老人から「太公望秘伝の兵法の極意」を授けられたときのエピソードを戯曲化したものである。こんな話だ。
『若き張良が浪人時代、武者修行の旅先で黄石公というよぼよぼのみすぼらしい老人に出会う。老人は、自分は「太公望秘伝の兵法の奥義」を究めたものなのだが、君は若いのに似合わず熱心に修行したと見えてなかなか見所があるので、「奥義を伝授してあげても良いよ」と申し出るのである。張良は「そんなことがあるものだろうか」と思いながらも、この乞食同様のみすぼらしい老人に何かを感じて、半信半疑ながら膝を屈して弟子の礼をとり、「先生」と呼んでかいがいしく仕えるのである。さて、この先生、いったん先生に納まってしまうと何喰わぬ顔で毎日ふらふらと遊んで過ごし、いつまでたっても何一つ教えてくれる気配がない。張良の方はだんだんいらついてきます。そんなある日、張良が街を歩いていると、向こうから石公先生が馬に乗ってやってきます。そして、張良の前まで来たときに、ぽろりと左足の沓を落とすのです。「取って、履かせよ」と老先生は命じます。張良は内心、ちょっとむっとするのですが、ここは弟子のつとめということで、黙って拾って履かせます。また別の日、街歩きの途中に再び馬に乗った石公先生に張良は行き会います。すると先生、今度は両足の沓をぽろぽろと落として「取って、履かせよ」と命じるではありませんか。張良はさすがにムカッと来るのですが、これも兵法修行のためか、と思い直して甘んじて沓を拾って履かせるのです。その瞬間、張良は全てを察知して「たちまちにして太公望秘伝の兵法の奥義を悉く会得し」となって、お話はおしまい。』
妙な話である。わけがわからない。いったい張良は黄石公から何を「会得」したのだろうか。それは「一瞬のうち」に「全てを覚る」ような仕方で認識されたのであるから、具体的な術技や知識の集大成としての「兵法奥義書」のようなものであったはずはないだろう。と、いうことは、ここでいう「奥義」とは知識や術技「そのもの」ではなく、その知識へのアクセスのありようや、その知識そのものの「意味」を説明するような知(メタ認知)であるに違いない。だからこそ、一瞬で全てが白日の下にさらされたように、認知と伝達が「一挙に行われた」のだろうと想像するのである。
この話には、ポイントが二つある。その一つ目は、既にある程度修行して名もあり、自分の力に自信も持っていたであろう張良が、「ワシは奥義を知るものじゃ」などとうそぶく、わけの分からないよぼよぼの老人に(その奥義の片鱗を見せられたわけでもないのに)「何か」を感じたことによって、膝を屈して「弟子の礼をとった」ということである。張良は「これこれの知識を授けてあげるから、しかじかの礼金でどう?」という風に「レッスン契約」を結んだわけではない。むしろ「何だかわかんないけど、この老人変わった人だなぁ。ふうむ。」というふうに、張良の側が自分の中に蠢いた「勘」とでもいうしかないものに、自分から「掛け金を置いて」、その「わからないもの」に自分の身を投じたのである。つまり、ここに生じたのは「教官/生徒」という知識の水位差のみによって生じる傾斜関係なのではなくて、「師/弟子」という、理解できない師への果てしない「仰角」と「跳躍」を必要とする関係だったということである。これが一点目。
もう一つのポイントは、「沓を落とす」という行為が「二度繰り返された」ということである。張良は、最初に沓を拾うことを命じられたときには、多少むっとしたかもしれないが、せいぜい「しょうがねぇな。先生もボケ入っちゃって。」とでも思うくらいだっただろう。しかし、これが二回繰り返されたとき、張良の中に「?」が点滅しただろうと思うのである。「これは偶然ではない」と、張良は思ったことだろう。そして、そこに「謎」が生成したのである。「一体この人は、こうすることによって私にどうしろというのか?」という「問い」が張良の中に立ち上がったに違いない。「もしかして、このことこそが兵法の奥義に関係したことなのではないだろうか」と、そこまできて張良は「はっ」として、そして豁然と何かを「覚った」のであろう。ここで大切なのは、師である石公先生は何も「指示めいたこと」をしていない、という点である。「じゃ、これから謎をだすからね。兵法に関係あるんだから。頑張って解くようにね」と石公が張良に告げたわけではない。張良は、師の振る舞いを見て「勝手に」それを「謎」だと解釈したのである。そして、そこに勝手に「問い」を立ち上げて、師がそれに応えるまでもなく、これまた「勝手」に「覚って」しまったのである。これが二点目のポイントである。
ここにどのような「兵法奥義」の授受がおこなわれたのか、そこまでは詳しくわからない。戯曲にはそこまで書かれていないのである。でも、想像を働かせてみれば、それはこんなようなことではなかったか、と思われる。石公の「沓を落とす」というような振る舞いは、意味があるのかないのか「よく分からない」ような振る舞いである。しかし、それが「二回繰り返される」ことによって、「これは何か意味のあることなのではないか」という疑念が張良には生じたのである。そうなると、張良としてはその「謎」に魅入られずにはいられない。「魅入られる」というのは、武道に於いては「行動の自由が奪われる」ということなのではないだろうか。張良は、もし次に街で馬に乗った石公先生と行き会ったら、と想像せずにはいられないだろう。「石公先生は、次にはどのように沓を落とすだろうか」と、張良はそのことに「とらわれ」ずにはいられない。吸い付いたように沓に目を奪われ、その振る舞いや如何に、と心臓ばくばくの張良であれば、よぼよぼの石公先生が不意に馬上から「斬りつけ」てもかわせない、かもしれない。
井上雄彦が連載中の「バガボンド」という漫画(力作です。原作は吉川英治の『宮本武蔵』)の中に、この「とらわれ」というものについての印象深いシーンがあった。久しぶりに出会った沢庵和尚に、武蔵は幼なじみの「おつう」のことが気になって仕方ない、と訴える。そんな武蔵を和尚は笑う。「今のお前なら、俺でも切れるわい」と和尚はからかい、実際に松の枯れ枝を持って武蔵と立ち会うのである。武蔵は「ふざけるな。今の俺は昔の俺じゃないぞ。」と力んでみせるのだが、沢庵和尚はそんな武蔵を哀れむかのように眺めて「・・・・そういえば、おつうのことだがな」と、優しく話しかけるのである。はっとする武蔵。その武蔵に、沢庵和尚はやすやすと松の枯れ枝で打ち込んでみせる。沢庵の一撃をまともに頭上にくらって呆然とする武蔵に、呵々と笑って和尚はこういうのである。
「ほらみろ。物事にとらわれれば剣は出まい。おつうのことを考えまい考えまい、としておるからだ。無理に押し込めるから、とらわれる。剣を一途に極めようとするも武蔵。おつうに思いを寄せるのも武蔵。どちらも同じ武蔵ではないか。全部認めてしまえばよいのだ。」
沢庵和尚が武蔵に告げたこの「悟り」は、張良の会得しただろう「奥義」に近似したものだったのではないか。人はとらわれ、魅入られることによって、このようにして「必ず負ける」ということを知ること。それが張良の得た兵法「奥義」だったのではないだろうか。
この話は「師弟関係」というものの有り様を、極めて凝縮した形で伝えるものだと思う。だからこそ中世から多くの人々の心を捉えてきたのだろう、と(内田先生同様)僕も考える。このように、師弟関係に於いては「師」が何かを「教える」ということがなくとも、弟子が勝手に何かを「学ぶ」ということが生じる、ということがわかる。黄石公がただの「ぼけ老人」であっても、張良は奥義をそこから学んだに違いない、というところにこの話の要諦がある。そう考えると、いわゆる学校に於ける教育システムの中での「教官/生徒」という関係で生じる「教授/学習」と、「師/弟子」関係という特殊な対人関係の中で生じる「教え/学び」の間には、「決定的な相違」があるに違いないと僕は思うのである。
この「教えるもの/教わるもの」という二項関係に於ける、決定的に異なる「二つの水準」について、レヴィナスはその本質が「自我/他我」「私/他者」という異なる二者関係の相違に由来していることを示して、見事に解き明かしてみせた。誤解の無いように、レヴィナスの示したものを勝手に縮減しないように、細心の注意を払って僕は説明を試みて来たのだが、果たしてどうだっただろうか。ずいぶんな道のりの迂回となってしまったが、レヴィナス先生への誠意を尽くすための欠かせない道程と考えて、みなさまにはご容赦頂きたい。さて、しかしここでようやく、話を音楽の方へ、つまり「指揮を学ぶ」という最初の話に戻してみることにしよう。
「指揮」もしくは「指揮法」といったものを定量・解析し、「理解可能」な知識・技能としてパッキングした上で、「教官/生徒」間で「知的水位差」を利用した受け渡しが「可能だ」と考えるのか。それとも、それは定量・解析が不可能なものなのであって、「わけがわからない」ままにパッケージもできず「還流不可能」なものであると考えるのか。そこに齋藤秀雄と近衛/朝比奈の「断絶」があるのではないだろうか。知識・技能の水位差として受け渡すことが不可能なものは、「理解」も「想像」もできないまま、ただ「畏怖」しながら「仰角を持って」見上げ、膝を屈してそれを「欲望」するという仕方、つまり「師/弟子という関係の中」でしか習得することができない。そのことを、近衛/朝比奈は「熟知」していたように、僕には思えてならないのである。
「教授/学習」によって教育された者には、ある一つの「特徴」が刻印される。それは「私は○○できる」という、「可能」の語法で自分のことを語るようになる、という特徴である。
「私は自動車レースのB級ライセンス持ってるんですよね。」「TOEICの1級持ってるんですよ。外国オケ相手にジョークもばっちりです。」「サッカーでインターハイに出ました。あの三浦とも対等にやりあったことがあるんです。」「イタリア料理の腕ならセミプロ級だって、あの辻先生に作って差し上げたとき褒めて頂きましたからね。」
こうした「物言い」で自分のことを語ること。流通可能な知識・技能のパッケージの「集成」として自分の力量を表現すること。これこそが「教授/学習」という学習形態によってもたらされる、最も顕著な「効果」なのである。
だから、このようにして指揮することを学んだ指揮者は、自分が「どのようなことができる指揮者か」という風に、自分のことを理解するようになるのである。
「私なら、ここの変拍子はもっと明瞭に振り分けられますけどね。」「複雑怪奇な現代曲も初見で振れるものですから。初演依頼が多くて、どうしてもレパートリーは広くなってしまいますよね。」「僕はちょっとウィンナ・ワルツのリズム感にはうるさいよ。ウィーン生まれのウィーン育ちだから。」「いやいや、僕には完璧な絶対音感というものがあるからね。」
といったふうに、「学校教育制度+コンクール」による「エリート・マエストロ養成教育」によって産み出される指揮者達は、そこでどのような「パッケージ」を会得したかを競い合うのである。あるいは、そのような「パッケージ」をたくさん持つということを「欲望」するようになり、それを崇めるようになる、といってもよい。その結果として、彼らは比較定量可能な共通基準の下に「整列」しようとするようになってしまうのである。学校教育という現場では、確かにそれは「便利」なのかもしれない。つまり、テストで採点するためには、あるいはコンクールで優劣を競うには、という意味合いに於いてである。このような状況下では、比較定量不可能な「わけのわかりにくい」指揮者の「個性」などというものは黙殺されるようになることだろう。結果として、「頂点」を目指して真面目に努力すればするほど、彼らは「似通って」こざるを得ないのである。
これに対して、「教え/学び」といった教育の場から育つ者にも、ある一つの「特徴」が刻印されることを指摘できる。それは、「私は○○できない」という「不可能」の語法で自分のことを語るようになる、という特徴である。彼らは永遠に到達できず、汲み尽くすことのできない「師の無限性」を口々に、しかも「過剰に」言い立てようとする。
「天才セナに較べれば、私の運転技術など何ほどでもないですよ。」「私の英語は戦時中に米軍キャンプで盗み覚えたいい加減なもんでね。まぁ、スラングが多くてかえって良かったんでしょう。オケにもうけてるみたいだし。」「サッカーは熱心にやりましたよ。インターハイで三浦に出会って自分の限界というものを思い知らされましたけど。」「あの辻先生に、冗談で酒のあてをよく作ってさしあげるんです。素人の料理はそれで良いんだ、って先生は笑って食べてくれますけどね。」
等々、というのが彼らの語り口である。そこには常に輝かしい「師」との比較に於いて「みすぼらしい」自分の姿が投影されている。彼らにとってそれは、師との比較に於いて得られた自分の「不能の覚知」であるから、決して彼らはそれらを声高に「戦利品」のようには語らないのである。しかし、往々にして「自分が何をすることができないか」知っていることは、「自分が何をできるか」しか知らないことに、勝っている。「知性」とは、本当は「自分が何ができるか」を言い募ることではなく、「自分が何をし損ねるか」ということを冷静に計算し、予測して回避できることを指すのではないだろうか。
だから、このようにして指揮することを学んだ指揮者は、自分が「どのようなことができない指揮者か」という風に、自分のことを理解するようになるのではあるまいか。
「私なんかが下手に振り分けたって仕方ないからね。まぁ、私の棒見て合わすほどうちのオケ下手じゃないから。」「私はレパートリーが狭いとよく言われますけどね。何せ不器用なもんでね、繰り返し人の倍やらしてもらって、ようやく何とか形になってるんです。」「ワルツが得意だと言ってもらうのは有り難いんですが、クレメンス先生のあのワルツを知っている私には、どうもばつが悪くてねぇ。」「絶対音感なら私もあると思うんですが、現実には役に立ってないんじゃないかなぁ。先生も絶対音感なんかなくても、ああやって立派にやってましたし。」
といったふうに、「徒弟制度」による「叩き上げ式職人教育」によって産み出される指揮者達は、常に自分の能力を「巨大な師」との対比によって語ろうとするくせがある。遥かな高みから自分を見下ろす視点を「外部」に確保すること。それが他ならぬ「師を持つことの効果」なのである。師が巨大であればあるほど、つまりその視点の高度が高ければ高いほど、彼は「広い視野」を確保することになる。そのような「広大な距離感」の中にあっては、師以外の指揮者同士の比較なぞ問題になりようもない。彼らはその意味で「孤独」なのである。そしてまた、孤独であることによって、彼らは唯一無二の「個性」を保証されていることにもなるのである。
さて、長い迂回によって回りくどくなってしまったが、今回は「指揮を学ぶ」あるいは「指揮者になる」ということについて、その「学びよう」というものに決定的に相違のある「二つの水準」があるのではないか、ということをとりあげて考察してみた。その学びように「決定的な水準差」があるのなら、それによって生じる「指揮者」というものにも、当然ながら「決定的な水準差」が生じるに違いない。クラシックの世界では「巨匠(マエストロ)の時代」は終わった、といわれて久しい。個性豊かな指揮者が目立たなくなり、「俊英」ばかりが幅をきかしている。そうしたことの背後には、指揮というものの「学びよう」が、時代に伴う変化と消失にさらされているという「事情」があるのではないか、と僕は推測している。
次回は、指揮者が指揮をするにあたって、自分の中に作り上げている「何か」について、つまり作品総譜(スコア)を読むという行為について、そこにも決定的な二つの水準差があるということについて語ってみようと思う。
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