音楽を求めて 5〔大石 聡/2005.12.22〕
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第5章 価値論を巡る議論のその後。『万物価値論』の衝撃について。
前回の続き。僕の「杜撰なユング論」と「精神科医師としての反省」を離れて、話をいったん「音楽」のことへ戻すことにしよう。小西収の「橋の話」に端を発したこのメーリングリストの議論は、次第に「普遍的(音楽)価値」といったものへと展開していく。当時のメーリング・リストからの引用を続けさせて頂こう。
『ベートーヴェンの第3交響曲を聞いた当時の人は(すべてではないが)、長ったらしいと言った。ブルックナーの交響曲を聞いた人を聞いた当時の人は(すべてではないが)、「交響的大蛇」と言った。普遍的、絶対的な美なんてのはそこで論理的には否定されているはずです。論理的というのは、all or nothingの評価ですから。「威圧感」というのがプラス、マイナスで評価したとして、マイナスを意味をするのならば、上記の例は「威圧感」をもつのでしょう。でも実際はall or nothingではなく、結構あいまいなところがありますよね。また、ほかの人が目もくれないところにこだわる人もいます。これらをひっくるめて、「自分がいいものがいい」で、すべてが語られていると、私は考えているのですがねえ。』
『なぜ、こういう結論が導かれるのか分かりませんでした。普遍的が否定されるなら、なぜ威圧感をもつことになるのでしょうか。(中略)論理的に否定されるかどうかの前段階として、普遍的共通認識は如何にして形成されたのかという疑問が強くあります。「人殺しは悪い」という命題の是非が普遍的であるとするなら、それはいつ形成されたのでしょう。(# 譬えとしてですが。)案外「普遍的」というものは、思い込みに過ぎず、周りに自分と同じ認識を見つけ、その数がある程度の閾値を超えた時点で「普遍的」と決めているのではないでしょうか。実際に「普遍的認識」が存在するかどうかの議論はおいておいて、現実に「普遍的」とされている認識と言うものは、所詮この程度のものではないかと勘ぐりたくなります。』
『「普遍的、絶対的な美」とはすべての人間が感じるものを指すのではないでしょう(一般的にはね)。「論理的」に考えても、「普遍的、絶対的な美」を「すべての人間が感じる美」と定義してはじめて否定できるのであって、その前提がなければ否定されているとは言えないのじゃないかなあ。ちなみに、私は「普遍的な価値のあるもの」を否定しているのではありません。「普遍的価値があるものは多くあるがそれを価値があると思わない人も多い」というのが私の立場です。これは私らしくないかもしれないがとても標準的な立場ですよね。また、私が言及していたのは「普遍的な意識(無意識)」のことで「価値(美)」のことではありません。』
議論はこのように「普遍的な価値」とそれを探り取ろうとする「主観」、さらにはその主観と主観との間に成立している「客観的・普遍的意識」といったところへ収束していく。この問題の奥底に通底している「問い」こそが、古来から多くの哲学者によって議論されてきた「主観と客観は一致するのか」という「問い」である。そして議論は、小西収による次のような発言に回帰してくる。
『僕は週刊金曜日への投書「吹奏楽コンクールとその害毒」の中で「芸術力」という語を用い,これに「主観を通じて普遍に至らんとする」という修飾を施しているのですが,ここに上記に引用した○○さんの文意(「普遍的価値があるものは多くあるがそれを価値があると思わない人も多い」というのが私の立場です。)と似たことを含めたつもりでした。普遍的価値があるものは確かに存在するが,その価値は客観的に決定できるものではなく,一人一人の人間の主観(思考と感性)がそれを決め(ようとす)る。だから,「何が普遍的かなんて客観的には決定できない。だから普遍的なものなどない(のでは?)」とする論には短絡があるのではないか。(中略)--客観的には決められない。が,主観的には確かに存在する。そしてしかも,それは主観的に決定され(ようとす)るものでありながらなおかつ,「単なる好み」と片付けられるようないわば狭義の主観的価値とも違う-- 「普遍(という語)」とは,まずはこのようなものだと考えます。』
音楽とは、「客観的」にみて「良い」音楽だ、というような「評価」ができるものなのだろうか。そのように普遍化できる「音楽(演奏)の価値」というものが、客観的に存在するのだろうか。あるいは、存在したとしても、それを万人に向けて「証明」できるのだろうか。この問いに対する回答を、上記の小西収の発言内容から「読みとって」みることにしよう。
小西収は「普遍的価値がある演奏の存在」を確信しているようである。しかし、その普遍的価値を決定する「客観的尺度」なるものは(吹奏楽コンクールでそれが存在するかの如く信奉されているのと異なって)存在せず、あくまで個人がその価値を「主観的に」決定され(ようとす)るものだ、と述べている。では、そこには個人個人の「単なる好み」しか存在しないのか、というと「そうではな」く、「主観を通じて普遍に至らんとする」ような営み(=指向性)の中に「普遍(という語の意味)」は住まうのだ、と述べているようである。
「客観的な尺度」や「定義」を拒絶し、それへの「指向性」とその「営為」の中にのみ住まうもの、とは一体なんだろう。それは、一種の「宗教的」な概念ではないだろうか。何かを信じ、その顕現を願いつつ生活すること。それは「宗教」の定義そのものであるように、僕には思われる。何故なら、そのような営為の先にあるのは、「主観を超えるもの」の象徴として、あらゆる「客観的尺度」や「定義」を拒絶するもの、即ち「神」なのではないかと思うからである。
小西収のこの発言に続いて、メーリングリストにフロイントの団長である大友一三の次のような「価値論」が表明された。かなり長くなるが、全文を引用してみよう。
『大友です。○○さん曰く
>「主観で決定されるものを普遍と呼ぶのか」
>とする主張かもしれません。
これに対しては、「呼ぶのだ」とまずは言っておこう。
>
一個人によって持たれた認識に対して、それが他の同調を伴う場
>合に普遍とされるのではないか。ならば、その同調の数は二人以
> 上でなければならないが、たった二人の共通認識を「普遍」とす
>るのか。しないならば、その境界はどこにあるのか。
私が以前言及した「普遍的価値」は、正確に言えば「絶対的価値」のことである。(前にも書いたが「普遍的な意識」とは別です。「意識」は人間の頭の中にあるが、「価値」はそれ自体(たとえばエロイカそのもの)にある。)おそらく小西さんの言われるものもそういう事だと思うのですが、「普遍」と言うと、「人類共通の意識」てなことになるのだが、「絶対的価値」のあるものは、たとえその価値を感じる者が1人しかいなくても、いや、論理的には「だれもいなくても」存在する。その概念を「宗教的」もしくは「哲学的」と言うならそれはそうでしょう。
私は、芸術とは絶対的価値を信じ、それを探求することだと思っているのです。それは「宗教的」「哲学的」な所作だと思う。だから、ほんとは橋がどうのといったって所詮は主観のぶつかりにならざるを得ない。「絶対的価値」は「神のみぞ知る」ですから。
>
普遍的命題の存在を確信し、それを信じることについての是非を
>問うつもりはなく、現に普遍的命題が存在すると主張するならば
>上記の私の問いの回答を是非知らせて欲しい。
>普遍的命題を期待し信じることはある種の宗教概念であり、
>それについて論理的波及をすることは無意味だと考えます。
条件A,B,Cをみたせば「普遍」というような証明は不可能でしょう。たしかにそれは無意味なことだと思います。
> 普遍的命題のそれ自身の存在意義とは何か。
「客観的には決められない。が,主観的には確かに存在する。そしてしかも,それは主観的に決定され(ようとす)るものでありながらなおかつ,「単なる好み」と片付けられるようないわば狭義の主観的価値とも違う-- 「普遍(という語)」とは,まずをはこのようなものだと考えます。」という小西さんの意見に私はその回答を見ていたのですが。私の意見を整理すると、
「普遍的意識」と「普遍的価値」は別物で、
「普遍的意識」
人間の心(頭?)の中に存在。(「意識」でええわな)数量化=定義も可能(何%以上の人間が賛同など)。
「普遍的価値」
絶対的価値そのもの自体に存在。(橋なら橋。絵なら絵。音楽なら音楽)存在の証明は不可能。それを信じることが芸術。(「主観を通じて普遍に至らん」)
て感じかな。意味伝わるかなあ。「橋」の話の時は厳密に書いてなかったので、これで真意が伝わればいいのですが。(ある橋を「美しい」と感じる「意識」を人類が普遍的に持っていることには懐疑的だが、ひょっとするとその橋は絶対的な美を持っているのかもしれない。俺にわからないだけかもしれない)』
これが、その後にメーリングリスト上で「万物(大友)価値論」と呼ばれた、音楽(演奏)の価値に関する最初の「表明」であった。そしてここにも「信じる」という言葉や、「宗教的な所作」「神のみぞ知る」といった言葉が散見される。
『私は、芸術とは絶対的価値を信じ、それを探求することだと思っているのです。それは「宗教的」「哲学的」な所作だと思う。』という言葉(というよりも表明)に、僕はある種の「感動」を覚えずにはいられない。ここに、この「万物(大友)価値論」の要諦が籠められているように感じられるのである。そしておそらく、「絶対的なものを信じながら探求する」という、その所作(身振り)の中に、「普遍的なもの」は住まうということなのだろう。ここにまた、先ほどの小西収の言葉が繰り返される。「客観的には決められない。が,主観的には確かに存在する。そしてしかも,それは主観的に決定され(ようとす)るものでありながらなおかつ,「単なる好み」と片付けられるようないわば狭義の主観的価値とも違う-- 「普遍(という語)」とは,まずをはこのようなものだと考えます。」二人はどうやら、僕たちに「同じこと」を告げようとしているようである。
「主観を通して普遍(客観)へ至らん」とする音楽的所作、身振り、あるいは営為といったものについて。この先、僕はそのことを中心に語っていこうと思う。それが、かつての僕の「良い演奏を求めて」に於いて、本来「追求されるべきこと」であったのだろうから。残念なことにかつて(前にも述べたように)僕は、音楽というものを「小西収=フロイントの音楽」との比較に於いて語るより他に「語り方」というものを知らず、なおかつそのことにあまりにも「無自覚」だった。そのせいで僕は、このような「本質的な問い」に辿り着くこともできず、ただ無自覚にフロイントの「賛美」を繰り返し、さらにはフロイントの「価値」を毀損/縮減しかねない「危険な行為」を繰り返してさえいたのである。改めて「音楽について」語ろうとする以上、その繰り返しの愚を犯さないよう注意し、より本質的な方向へ舵を取って行かねばなるまい。そのために、この小西収の言葉「主観を通して普遍(客観)へ至らん」を常に中心に据えて、外すまい。
かつてフロイントのメーリングリストで「万物価値論」というものが表明され、僕は強い「衝撃」を覚えたのだった。もちろんその時点では、僕はそれが何のことを語っているのか「本当には」理解できていなかった。ただ「衝撃的」であっただけである。しかし、ともかく、僕はそのことをずっと考え続けてきた。それは「良い音楽とは何か」ということに繋がる「何か」であるのと同時に、僕にとっては「良い治療とは何か」ということにも、同時に繋がってゆくはずのものだった。「理解したい」という「欲望」というよりもむしろ、「理解しなければならない」という「強迫的な義務感」を抱いて、僕はこの「価値論を巡る論争」を「反芻」し続けてきたのである。おそらく、こうした営為には「終わり」というようなものは存在しないのだろうと思う。しかし、とにかく、どこかでそれについて何らかの「理解」を掴み、それを言語化することを僕は「切望」してきた。そして今さらにして、ようやく何かそのことについて少し「語れるのではないか」と、思い始めたというわけである。
このようにして、僕は「音楽を求めて」を語りはじめたのだと思う。
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