音楽を求めて 1〔大石 聡/2005.12.3〕
…ML投稿文
第1章 入院したこと。また書きたいということ。
この夏、僕ははじめて「入院」というものを経験した。これまで他人様に入院して頂いたことはあっても、自分が入院というものをしたことがなかったのである。
数日前から舌の動きに違和感があった。精神科医は話を聞き、またしゃべるのが商売である。舌を噛むほどではなくても、微妙な抑揚や声のトーンが出せないと非常に気になるのだが、そういう微妙な感覚の異常である。もちろん気にはしていたが、誰かに相談しようなどとは毛頭考えていなかった。でも、その日は朝から少し変だった。精神病院というところは、閉鎖病棟の出入りにいくつもの施錠箇所がある。その通過の度に、鍵が手元からぽとりと落ちる。どうかしている、とそのたび舌打ちしていた。しかし仕事はいつもにも増して忙しく、時間はただただ慌ただしく過ぎていった。ふつうに帰宅して、さて食事を摂ろうとして、右手が箸をうまく握れないことに気がついたのである。麻痺だけではなく、感覚消失もあるようだった。やや焦って近所のかかりつけ内科医に飛び込み、すぐ電話で入院の紹介をしてもらい、家人に車を出してもらって市民病院へ急いだ。窓の外を見つめながら「これはひょっとするとやばいかもな」と、割合に冷めた気分で考えていた。苦痛は全く無く「大変なことになった」というような実感も湧かなかった。そのように情動が麻痺していることこそ、本当の症状であったのかもしれない。
やはり脳梗塞の疑いが濃厚とのことで、そのまま即入院となり、絶対安静を命じられて24時間の持続点滴が開始された。メールでとりあえず職場の同僚に連絡を取ったのだが、あまりにあっさりした文面過ぎて「もっと詳しく!!!」と尋ね返されてしまった。苦笑しつつ状況報告してしまうと何だかもうほっとして、その夜はそのまま眠りに落ちた。ところが、次の日も、その次の日も、「何でこんなに眠れるんだろう」と思うくらい、よく眠れてしまうのである。日中も検査の時だけ目覚めていて、あとはずっとウトウトしているような感じだった。影のように看護婦達がやってきて何かをしゃべり、また消えていく。彼女らは顔も口調も良く似ていて、全然区別がつかない。何人かが交代しているんだよな、と頭では考えつつ「どうしていつも同じ人が来るのだろう」と、目が開く瞬間には不思議でならなかった。食事は摂っていたが味気なく、機械的に口に運んで飲み下していただけだった。ただただ、ひたすらに眠かった。
さすがに4日目くらいから、身体が落ち着いてきたのだと見えて、眠気が無くなった。個室のベットに横たわって、あれこれ考えを巡らしてみるのだが、こんな状況で仕事のことを考えてみても仕方がない。雑誌をぱらぱらめくってみるのだが、文字はうまく頭に入ってこない感じだった。で、しばらく使っていなかったポータブルのCDプレーヤーが家にあるのを思い出して、CDと一緒に持ってきてもらうことにした。CDは何がよいか、と尋ねられて、しばらく考え込んだ。こういうときに病室のベットに横たわって聴くのに、どんな音楽が相応しいというのだろうか。バッハか。ベットでリアルに神と向かい合うのもしんどそうだ。モーツァルトか。BGMとしてなら良いのかもしれない。ハイドンはどうだろう。健康すぎる音楽はしっくりこないかもしれない・・・等々。いろいろと考えたけれども、結局相応しい曲を僕は思いつくことができなかった。ふと、何だか長いこと「リアルな音」を聴いていないな、という気がした。僕にとって最も「リアル」な音というのは何だろう、と考えてみると、これはもう簡単だった。それはつまり「フロイントの音」に相違ないのである。そこで、これまでのフロイントの録音を全て持ってきてもらうことにした。
第1回の録音から順番に、ベットに横たわったまま目をつむって演奏を聴いた。イヤホンから入ってくる音は少し頼りなく感じられた。なんだか音がかさかさして、新しい服が身体にうまく合わないような感じである。音楽の生気が上滑りしているようで、演奏にうまく手が届かない感じだった。でも、2枚目、3枚目と進んでゆくにつれて、音が段々とリアルに感じられてくるのだった。いつしか僕は、ただ何も考えずに音楽に没入していた。日が少し傾き、窓の外には夕方の気配が漂いつつあるようだった。ベートーヴェンの5番交響曲の第2楽章がはじまり、深い深いため息のように音楽が開始された。しばらくして、僕は自分が泣いていることに気がついた。不意に、何の前触れもなく、涙が溢れ出していた。「何で泣いているのかな」と僕は思い、それからあんまり脈絡無く「そういえば、音楽というのはこういうものだったな」などと考えた。「これは感傷の涙なのかな」と思い、少し心をまさぐってみたが、そのようでもあり、そうでもなさそうでもあり、答えは出なかった。ただ、それが「感傷」であるにしては、僕の心は相当に冷めていた。涙は、なかなか止まらなかった。
10日ほどの入院で、幸い麻痺の症状もほぼ消失して退院することが出来た。入院前とは空の色が全然違って見えたから、麻痺以外にも相当治療されたところがあったのかもしれない。音楽も活字も、ずいぶんとすんなり頭に入ってくるようになった。退院後の自宅休養の間、僕はむさぼるように難しい本を読み(仕事がハードである間はそのような本が頭に入ってこず、もう長いこと手に取ることが出来なくなっていた)、しばらくぶりに聴く懐かしいCDを、嬉しがって次から次へとプレーヤーに入れて、その一つ一つをじっくりと愉しんだ。やはり音楽は素晴らしい。改めてそんな「あたりまえのこと」を思った。
むかし(もう本当に10年以上前のことになってしまった)フロイントが始まった頃、僕は「何故フロイントをせねばならないか」ということについて、「アンサンブルを作る」という文章をひたすら書き、自分で発行した「フロイント通信」に連載していた。誰のためでもない。何故に僕は「フロイント」なるものを立ち上げ、とりくまなければならなかったのか。それが自分自身でもわからなかったので、ただそれを知りたくて、言葉にしたくて、せっせと「自分に向けて」文章を書いていたのである。「オーケストラはどうあらねばならないか」「フロイントの方向性は」などと僕が一人で力んでいる間に、しかし現実のフロイントは(僕とは何の関係もなく)着実に成長し、ゆるやかに進歩していったのだった。そして、ふと気がついた時には、確固として「フロイント」はそこにあった。なぁんだ、と思って僕は書くのをやめた。
それからまたしばらくして、今度は「フロイントの目指す音楽」のことが僕は気になり始めた。やみくもにフロイントを立ち上げることに必死で、純粋にその「音楽」について考えたことなんか一度もなかったのだ。フロイントの奏でる「音楽」もまた、フロイントそのものと同様に、その頃着実に進歩してきていたし、それが「素晴らしいもの」だという実感もあった。しかし、それが「良い」というのは、どういうことなのだろう。「良い演奏」とは、何か。そんな疑問が立ち上がったために、僕はまた自分自身に向けて、今度は「良い演奏を求めて」という名前の雑文を書き散らしはじめた。上手くなるということ、一生懸命であるということ、楽しいということ、真剣ということ。そのような様々なことが「良い演奏」とどのように関係があるのか。いろんなことが気になり、でもそれらが演奏と関係があるのかどうか、結局のところ(もちろんのこと)僕にはわからなかった。考えれば考えるほど「良い演奏」は遠ざかり、結局のところ、僕は「フロイントの音楽」に心から満足していたので、やがて雑文を書き散らす「病」も自然消失していった。
そして今、改めて「良い演奏とは」と胸に手を当てて考えてみたとき、僕はもう「目指すべき音楽」、つまり条件設定的で、その条件のクリアにおいて理想的であるような「良い演奏」などというものを、全然求めて(信じて)いないということに気がつくのである。それでいて僕は、今この時にフロイントに実現している音楽の、いわば奇跡的とも呼べる「素晴らしさ」については、ほとんど揺るぎない「確信」を抱いていることを発見する。それは決して「目指すべき音楽」や「理想的な音楽」といった「知的認識による満足」ではなく、ただ「良い演奏」だという「身体的な実感」なのである。「良い演奏」と「そうでない演奏」というものは、確かに存在している。しかし、「良い演奏」とは、どのように「理想の演奏に近い」のか、という具合に「直線的」に「比較定量」できるものではないのだろう。演奏技術、演奏への献身、集中と真剣さ、演奏する喜びなど、演奏に伴うファクターは無限にあり、そのどの組み合わせからも「良い演奏」は発生し得る。しかし、その発生はただの「偶然」によるのではない。フロイントの存在は、そのことを実証しているようにも思うのである。
僕は、フロイントによって「音楽」というものを学んだ。学んだというより、それは「育てられた」というのに近いのかもしれない。それは「理解」ではなく、身体的感覚として「知った」ことだからである。フロイントの生成に最初期からコミットしていたにもかかわらず、僕はフロイントが何であるかを知らず、そこで起こっていることの意味についても理解していなかった。ようやくにして今、少しは「フロイント」というものが理解できるようになり、そこから逆にフロイントの「音楽」が、さらには純粋に「音楽」というものについても、何か「見えつつあるもの」が出てきているように思われるのである。そのような位置に立って、僕はまた「音楽について」書いてみたくなったのだ。今自分に「見えつつあるもの」が何であるのか、それを僕自身も知りたい。そのためにまた文章を書いてみようと思う。
そういう意味で、この自分に向けて書かれる雑文を「音楽を求めて」とシンプルに命名することにした。時折、不定期に、発作的に、痙攣的に、フロイントのメーリング・リストに向けて雑文が投稿されることと思う。僕は熱中すると「小難しいこと」を書く癖があるけれども、それは単純に、自分を説得するのに手間取っているだけである。所詮独り相撲なので、びっくりしないで頂きたい。皆さんにややこしい議論をふっかけて、嫌な思いをさせるつもりは全くない。最初に謝っておくので、ご容赦頂きたい。
これは正確な意味で、フロイントのみなさんへの「メッセージ」ではないけれども、フロイントのみんなに向かって話すしかない、といった種類の話しではある。これはフロイントという存在から、「必然的」に生まれ出てきてしまったお話の数々である。興味がある方はそれなりに読んで頂ければ嬉しいし、面倒な方は読まずに捨ててもらって一向に構わない。ごく気楽に、クールに、それぞれのやり方でおつきあい頂けたら嬉しい。
このページの画像および文章の無断転載および無断使用を禁じます。
