[行ってきました演奏会] モーツァルト:フィガロの結婚〔大石 聡/1995.10.21〕
今回取り上げる演奏会は、妙に思われるかもしれないが、演奏者が誰なのかさっぱりわからないのである。というのも、この演奏会が今年の夏の旅行先であるイギリスの、最後に通りがかったロンドンのツーリストインフォメーションで、「今晩何かクラシックのコンサートはないでしょうか」とだすねてみて、たまたまチケットが手に入ったからである。「これで完璧、旅行英会話」とかいう小冊子片手の片言会話である。もちろん詳しいことはわからない。最初はちょうどロンドンが「プロムス」という音楽祭のシーズンだったもんだから、そちらを勧められたのだが、よくよくプログラムをきいてみると全然知らない曲。他にはないのか、と粘って、ようやくどこかのトラヴェリング・オペラがきていて今夜「フィガロ」をやるらしい、ということが判明したわけだ。そんなわけでアーチストの名前なんて聞かなかった、全然期待していなかったわけだ。
演奏会場はバービカン・ホールというなんだか場末にあるホールで、ナリはでかいが、何だかうら寂しい建物だった。思いのほか中心部から遠く、遅刻してしまったぼくらは仕方なく第一幕の終わるまで、外のソファーに腰掛けて、ビールを飲みながら待つことになった。昼間歩き回って体はくたくた、程よくアルコールも入って、居眠りには最高の条件である。一幕の終わる拍手の音を確かめて、居眠りを覚悟してホールに入った。二階席は半分も客が入っていない。暗くて良く見えないが一階席もがらがらの様子だ。決められた席につく必要もない状況だったので、できるだけ前の方へ進んで席についた。舞台は、とみるとほんの学芸会程度の部屋のセットが置かれているだけ。しかも、なんとその隣に、つまり舞台の上にオケがいるではないか。オケとは名ばかりの実に小さなオケで、よく見ると弦楽四重奏団に管楽器が一本ずつ加わっているだけだ。完全一人一パートである。なんだこりゃ、と思ううちに演奏が始まった。指揮者は手に棒をもっていない。古楽の指揮のような(ビデオで見たことがある、アーノンクールの指揮に似ている)ふり方で、しかも間奏は自分でチェンバロを弾いている。オペラ、という言葉の響きからは程遠い、質素な(学芸会みたいな)雰囲気の舞台である。
ところが仰天したことに、この演奏がすばらしいのである。オケの動きが機敏で、実にチャーミングだ。反応が早い、という感じである。「フィガロ」はモーツァルトの音楽の中でも特に華やかな、光に満ち溢れた音楽だけれども、本当に楽器が光を放つような案配なのだ。眠気なんか吹っ飛んでしまった。オケばかりでなくて歌手陣も素晴らしい。それほど目立つ美声ではないのだが、聴かせるのだ。演技力も抜群で、簡素な舞台をじっと見ていると、言葉もわからないのに(英語だったので少しはわかったが)、充分笑い、楽しめる。特にスザンナ役が素晴らしくて、その少しばかり下品で、しかし正直な、明るく可愛い女の魅力が実にうまく表現されていて、ほろっ、とさせられてしまうのだ。レコードなんかでこうしたオペラを聴くと、どうしてもアリアとアリアの間がまどろっこしくて、ダレてしまうものだが、いい舞台であれば、むしろその間のせりふのほうが面白いくらいだということを初めて知った。役者の演技力もむろんある。しかし、指揮者のチェンバロ伴奏が実に巧みに舞台を引き締めているのだ。客も舞台を見て笑い、合間合間で拍手し、実にくだけたふうで楽しんでいる。あの長いドタバタ劇が、本当にあっという間だった。指揮者が何者だったのか、オケのメンバーが一体どこの誰なのか、全然わからないままである。しかし、実に素晴らしい演奏会だった。こういうものがさりげなく場末のホールで行われているんだから、ロンドンは奥が深い。客も多くなかったし、特にめかした風もない人々が適当に集まっただけといった風情だった。モーツァルトの天才を満喫できて(いい演奏会を聴くと、必ずその曲の今まで知らなかった、本当の魅力に触れたような気がするものだ)、実に幸せな夜だった。
(アンサンブル通信 1995.10.21/第70号より)
