[名曲探訪] モーツァルト/ピアノ協奏曲第27番 変ロ長調〔大石 聡/1994.10.29〕
「そのあまりの美しさの故に、私は滅多にこの曲のディスクを手にすることが無い」と、串田孫一という詩人の書いていたのを思い出す。この曲をやってみるかということに決まったとき、団長の大友さんも同じことを言っていた。そういう気持ちは良く分かる。この曲の平明な澄んだ美しさは、「死」に通じる美だと思う。
この曲を聴くと、僕はよく高校生の頃を思い出す。阪急神戸線の岡本という、人の名前のような小駅から、30分程山手に上ったところに保久良神社という社がある。毎日登山の人達の休む小屋の裏手に大きめの石のベンチがあって、そこに寝転ぶと楠の枝の間から青い空が見える。第三楽章が、まるで口笛を吹いているかのような、あっけらかんとした明るさとリズムで開始されると、ああ、あの時の空の色のようだなと思う。
人が「死」に一番近いのは老いた時なのではなく、若さの直中にある青年の時なのではないか。僕はこの曲の「死」の透明さが、高校生の頃の記憶の風景と結びついていることをそんなふうに思う。僕はこのごろ時折、自分が既に高校生の頃の自分ではないことを感じることがある。『もし今、自分があと一年の命であると宣言されたら』という問いかけを自分にしてみたことが皆さんにもあるだろう。昔から僕は死の告知の問題に関しては積極的な告知論者だった。あれをして、これもして、と高校生の僕はいろいろと想像を巡らせ、そして一年後にきっちりとこの世に別れを告げる自分の最後の姿にまで、あの頃僕は易々とたどり着くことが出来たのだ。
今、同じ問いかけに対して僕は僅かな迷いを隠すことが出来ない。死を実際に前にして、その恐怖に何も手につかずに日を送るかも知れない自分の弱さを感じるのだ。漫画家の手塚治氏の妻女が「あの人には目前に打ち込んでいるものがあったし、それが完成しないかも知れないという恐怖には耐えられないと思ったのです」と述べられて告知をされなかった気持ちも、今なら少し分かる。僕も既に青年では無くなりつつあるのだ。
僕はバックハウスがベーム/ウィーンpoと録音したディスクでこの曲をよく取り出して聴く。特別な種類の美しさとしてこの曲を理解する人の気持ちは分かるが、僕にとってはこの曲は既に日常の親しみのある曲となった。それでも最初に聴いたときの輝きは少しもあせることが無い。モーツァルトは恐ろしい作曲家だと思う。もし今日「死」を告知されても為すべきことが無く、結局それまでと変わりない日常を過ごして死を迎えるとしたら、それは何と素晴らしいことだろう。第三楽章の、あの口笛を吹きながらポケットに手を入れて、澄んだ青空の下を散歩するような弾んだ音型を聴きながら、僕はそんなことを考えている。
(アンサンブル通信 1994.10.29/第37号より)
このページの画像および文章の無断転載および無断使用を禁じます。
