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インサイド・フロイント

アンサンブルを作る・続編〔大石 聡/1999〕

…ふろいんと通信/1999年第158,159,160報より

 『アンサンブルを作る』というのは、このフロイント通信の本当の初期の頃、僕の頭の中でまだ色々と「新しいアマチュア・オーケストラ」に関するもやもやが渦巻いていた頃に、自分自身から吹き出るものを整理するつもりもあって、かなり意気込んで「団内報=フロイント通信」に連載していた一連の文章の題名となっていたものです。

 今改めて読んでみると、何だか可笑しいくらいに気張っていて説得調で「いったい誰に向かってそんなに説得してるんだ」ってな具合なんですが(良く考えると自分を説得してるんだな、あれは。。。あぁ、恥ずかしい)、でもその未整理な文章の中に、今のフロイントの骨子となっているような思想の萌芽と言うようなものがすでに認められます。大学オーケストラにいた当時に感じたこと、そのあと社会人オーケストラに入ってみて感じた不満、といったことをたどたどしく自己分析しながら書いているのですが、でもそれらが結局のところ、なんやかんやいっても、フロイントと言う集団の最初の最初の小さな核だったわけですよ。まぁ核といっても、雪の結晶の核になるのは空気中のゴミだ、というような程度のもんではあるんですがね。そう思って読み返せば、やはり愛おしいような気分がするもんです。とにかく、それらがフロイントという一つの集合体の始まりだったことは、紛れもない事実です。

 フロイントの骨子、といっても実はたいした事ではありません。実際のところフロイントを創設するとき、僕が打ち出した具体的なポイントと言うのは、要するに二つだけしかありませんでした。一つ、指揮者は小西収でなければならない。一つ、団長は大友一三でなければならない。これだけですよ、これだけ。わははは。うーん、何だか情けなくて、身もふたもない話になってしまいますねぇ。でもホントのことですから仕方がない。ただね、ちょっとだけ自己弁護させてもらえば、単に小西さんを音楽的な核に据えるというだけでなく、人間集団の核としての機能を持つ大友さんも絶対に必要なんだということを感じていたところが、僕のオリジナルといえなくもありません。このことはね、実は非常に大事なポイントだったんです。ホントのところ。

 オーケストラなんですからね。指揮者がつまらないじゃ、話にならない。これはまったくあたりまえのことなんですが、この程度のことも意外と世間では認識されていなかったりして、びっくりさせられます。でもまぁ、つまらない指揮者にしかあたったことがない不幸な人にはなかなか理解しづらいことだ、という側面もわからないじゃありません。一概にそういう不幸な人々を非難はできないですよね。ただ、僕が初期の『アンサンブルを作る』で実際のこととして書いていたように、つまらない指揮者をわざわざ選ぶようなオーケストラも現実に少なくないんです。つまり「あの人は確かに指揮はいいが、人間が出来てない」とか何とか、云うわけなんですよ。確信犯的につまらない指揮者を選んでいる。驚きですよねぇ。で、人当たりのいい無難なだけの人が結局安全運転で定期演奏会をこなすだけ、といった市民オーケストラが出現しちゃうわけなんです。うーん、これじゃ本末転倒ですよねぇ。

 ああ、そうそう、定期演奏会といえば、定演をしないオーケストラにしたい、ということは最初から考えてましたね。だってねぇ、定期演奏会がアイデンティティになって御覧なさい。オーケストラの活動は全てそれに捧げられちゃうんですから。まずは選曲会議の始まりですよ。オケの古株やらなんやらが各パートリーダーに根回しするところからスタートです。もちろんパート会議も開かれます。権謀術数が飛び交います。いや、そういうのが面白いって言うんなら別に止めませんよ。でも、それは音楽とは何にも関係のないプロセスなんですよねぇ。で、良くわからない曲が決まって、指揮者は仕方なくそれを振るわけです。好きだろうと好きでなかろうと「舞台に上げられる所まで仕上げるために」ですよ。そんなトゥッティ面白いですか?面白いわけ、ないですよねぇ。でも、とりあえずさらうことを強要されます。「舞台でみっともない真似は出来ないから」ですって。ははは。で、本番間近になると続々と幽霊だった団員も現れるわけです。「トラ」とかいう見慣れない人たちもどこからか演奏会をかぎつけてやってきます。で、華々しく舞台に散るわけですよ。。。スイマセン、つい辛口になってしまいました。定演市民オケ(そんな言葉はないか?)が好きな方、そこで心から楽しんでおられる方、本当に申し訳ありません。別に非難してるわけじゃないんです。そこで楽しんでくれてていいです。ただ、どうしても僕にはその活動が「音楽が好きで」為されてるような気がしないだけです。許してください。僕は、ただ音楽が毎週楽しみたいだけなんです。だから、定期演奏会はホントにいらんと思ったのですよ。

 いや話が逸れてしまいました。指揮者が大事のは当たり前だ、という話でしたね。そう、それは当たり前なんですよ。でも、その指揮者の活躍を支えるには結局のところ、オーケストラのほうにも「度量」が要求されるわけなんですよ。いい指揮をする指揮者に好きなように振らせて、その才能を発揮させてやる、というような。えらそうですけど、そうなんです。大体ね、優れた指揮をする才能のある人物と言うのは本物の芸術家なんだから、大なり小なり変わってますって。変な人なんですよ、ホントに(ご、ごめんなさい、小西さん。褒めてるんですー?)。いや、これはいろんな団体を覗いて歩いた実体験としていうわけなんですが、優れた芸術家と言うのは理解しがたい一面を必ず持ってるもんです。そうでなきゃ個性優れた指揮なんか出来ません。芸術家に常識とか、団員への気配りを求めてどうする。そういうのは別の人がやりゃいいんですよ。違う才能なんだから。

 と、ここまで考えてくると、やっぱりオーケストラと言うものには二つ核がいることがわかりますよね?つまり、指揮者と団長です。人間集団としてのオーケストラをまとめるのは音楽的行為とはまた違った才能なんですよ。それをワンマンに指揮者に集約してしまうと、往々にして不幸が起こるんだなぁ。。。いやいや、そういう実例を僕はいくつか指折り数えあげられますよ。音楽的に優れた人は、必ずといっていいほど、そういう方面の才能がない。神様って意外に平等です。いやホントに。

 で、この辺のところまでは、フロイントの創立初期の『アンサンブルを作る』で、大体僕は結論に至っておったわけです。団には二つの核が必要である、と。で、音楽的には指揮者(音楽監督ですな)にもう全権をゆだねてしまう。何の曲をやるか、演奏会をするのかどうか、レコーディングしてみるかどうか、いつまでその曲を練習するか、どんな風に練習するか、それは指揮者以外には決められんことです。だってねぇ、指揮者がやりたくないことさせたって、面白いトゥッティになんかなりゃせんのですよ。ホントに。その辺のところは指揮者の音楽性と心中するしかないんです、オーケストラって言うのは。それくらい大事なんですよ、指揮っちうのは。でも、こういうとすぐに「いや、団の運営は民主的でなければ」「曲はやっぱり選曲会議を開いて」「練習方法もみんなで考えて」とか、言う人がいるんだなぁ。いやいやホントに多いんだ、こういう人。以前「民主主義とオーケストラ」っていうテーマで話を書いたことがあったですが、日本という国はホントに「民主的に」ちうのに弱い。案外こういわれるちゃうとみんな「そうだねぇ、やっぱり民主的じゃなくっちゃ」っていうんだから、ことは重症です。いけません。指揮者は好きにさせておきましょう。音楽的絶対独裁です。それが一番いいんです。

 では、大友さんには具体的に何を期待していたのか?やっぱり独裁?それとも舵取り?バランス感覚?頼りになる相談役???

 正直言って僕はその頃「大友さんが居らんとうまく行かん」とは確信していたのですが、実際のところ自分が何を大友さんに期待しているのか、小西さんに対する期待ほどには良くわかってはいませんでした。それが自分に欠けている物だということは、なんとなくわかったのですが。。。でもね、最近少しそのことについて発見したことがあったんですよ。いや、といっても僕の中だけで、ごく個人的にということなのですが。みんなにはとっくにわかっていたことなのかも知れませんが、僕にとっては何か目の前が明るくなるような、大きな発見でした。今回はその辺の話をちょっと書いてみたいと思います。

* * * * * * * * * *

 そもそものきっかけは、フルートのじろうさんが作って下さったフロイントのサイト(インターネット上の専用空間のようなもの)でした。いや、これが実にきれいに出来ておりまして(まだ建設途中ですが)、ちょっと覗いてみたのですが、すっかり嬉しくなってしまうような出来映えだったのです。で、フロイントのメーリング・リストはこのことの話題で持ちきりになりました。次はどんなことを載せようか、こんな宣伝をすれば人目を引くかもしれない、フロイントの本当をわかってもらうにはどうしたらいいだろう。。。普段あまり意識していなくても、改めて意識してみると見えてくるもの、ってありますよね。それはまぁ、いわばフロイントの「アイデンティティ」とでもいうべきものを、もう一度問い直すような機会でもあったわけなのです。そうした時、ヴァイオリンの西内さんからの投稿が、ふと僕の目にとまりました。抜き書きですがこんな投稿です。

 「あと,僕個人的には「見学者」より一歩踏み込んだ「ゲスト」の人もよく来られて一緒に演奏されると言うのが他の団にあまりないことだと思っているのですが...これは(フロイントの)PRポイントにはならない?」

 これを読んだとき、正直に言って。。。僕は少し考え込んでしまいました。何故なら、この「ゲスト」という立場の人々のことが、実はずいぶん長い間僕の中でくすぶっていたからです。忘れていた、というよりそれは未整理のまま僕の中で、ずっと脇において置かれた問題でした。その問題が、初めて僕の中で強く意識されたのは、フロイントの最初の公開演奏会に「トラ」が来たときのことでした。

 初期の『アンサンブルを作る』の話に戻りますと、あの頃「指揮者の全権」「定期演奏会をしない」といったものとは別に、僕がどうしてもこだわりたかったことがありました。それはいわば「団員の平等」とでもいうべきものだったでしょうか。。。ああ、今でもうまく説明できないな。でもそれは、つまりこういうことなのです。

 団長がいて、副団長がいる。指揮者と副指揮者がいて、マネージャーがいて、渉外がいて、ステマネがいて、会計がいて、パートリーダーたちがいる、で、その他がいる。。。と、まぁこんな風になっておるわけですよ。一般のアマチュア市民オケというのは。要するに団員に「幹部」と「ヒラ」という区分があるのですよ。面白いですねぇ。幹部ですよ幹部。オーケストラの主要な事柄は古株であるところのこの「幹部」の合議で決められるようになっています。要するにオーケストラを動かしているわけなのですが、この人たちは団の仕事を分担しているという理由で、ある種の特権が認められているわけです。色々と忙しいが、その分あれこれ口を出す権利がある、ということですね。逆に「ヒラ」は世話をしてもらう側の立場で、とても楽チンなのですが、そのかわり何も口出しできない。一見当たり前といえば、当たり前のようなシステムです。でも、しばらくこうしたシステムの基で過ごしてみると良くわかる(と、僕は思う)のですが、これは実に何だか不愉快なシステムなんですよ。不愉快と言うか、やる気が出ないというか。何だかどんどんスポイルされているような気になってくるんです。幹部がやってるのに乗っかってるだけなんだから、楽でいいやね。気楽にやってればいいよ。。。そんなだらけた気持ち、とでもいうんでしょうか。そしてそれが演奏にも染み出してくるような気がし始めます。俺はまぁ幹部じゃないんだから、そんなにしゃかりきに弾かなくてもいいかぁ。。。

 僕はその心地悪さがとてもいやでした。それは「熱心な人」と「そうでない人」の醸し出す不協和音のように、音楽の中にまで響いているように、僕には思われました。だからあの頃の僕は「みなの団にかける思いが等しく揃っていることが、良い演奏を作り出す条件になる」と考えていたのだと思います。凄く頑張っている人と変に覚めている人が混じっているのは困る、と。今考えれば、それはやはり頑なな考えでしょうかねぇ。だって「熱心でない人はいらない」といっているわけなんですからねぇ(ホントのところ音楽に熱意がない人はいらないわけなんですが)。でも実際のところ、当時の僕はかなり本気だったのですよ。小西さんの力でトゥッティの高いクゥォリティを保ち、いろんな団の取り組みに等しく皆で取り組んでもらって、その充実感のようなものを分け合っていけば、団員みんなが幹部であるような、そんな熱気が作り出せるのではないか。小西さんのあの指揮にふさわしいような、熱のこもったオーケストラを作りたい。。。ホントにそんな気分だったです、あの頃の僕は。

 しかし、そのような「団員の等しさの意識、熱意」といったものを、具体的に何に求めて実現していけばいいのか、それが僕にはわかりませんでした。わからないながらも何か提出していかなければ。。。という中で『アンサンブルを作る』で僕が提唱していったもの、その一つが「トラ」を呼ばない、ということでした。僕は市民オーケストラで「本番」前になると現れる、幽霊団員やら「トラ」というものの存在が非常にうさんくさく思われたのです。それこそが「団員の等しさの意識」を奪うような気がしてならなかったのです。どうして普段練習を共にしない人と「本番」だけ一緒になるのか、どうしても違和感がありました。良く考えてみると、それは突き詰めていけば「練習に来ない奴はいらない」という論理につながっているのですが、それがなければ団員同士の間の、あの妙な「隔て」が取り除けないというのならば、それだってやむを得ないというくらいの気持ちでもあったのです。人間真剣になりすぎて視野が狭くなる、という例なのかもしれません。

 だから、僕はフロイントの初めての公開演奏会が行われた時、「やはりモーツァルト(ベートーヴェン)が書いた全ての音符を鳴らしたい」という指揮者の要望もあって、「トラ」にあたる人々を呼んで、編成を増やして臨んだことがいつまでも心のどこかに引っ掛かって、とれませんでした。一応納得はしたのです。実際に演奏そのものは非常に熱のこもった素晴らしいものでしたし。小西さんにかかったら、そんな小さな事は関係ないのかもしれない。出てきた音楽が良ければそれでいいじゃないか、と考えてみたり。でもどこか納得していなかったのでしょうね。案外しつこい性格ですからねぇ、僕は(笑)。

 その心の引っ掛かりが、西内さんの書き込みを見たときに、鮮やかに僕の中によみがえりました。「見学者」や「ゲスト」は「団員」なのか?それは「トラ」とはどう違うんだ?どうして「団員」でない人が一緒に演奏しているんだろう。確かに現実に違和感なくフロイントはそれらの人々を飲み込んでいる。しかし、それは本当に正しいことなのだろうか。フロイントの「売り」として誇っていいようなことなのだろうか。これを一体どう考えたらいいのだろう。。。?

* * * * * * * * * *

 西内さんの書き込みをみてからの数日間、ずっとそのことをどこかで考えつづけていました。そのせいだったのでしょうか。病院の仕事で、ある障害者のボランティア・グループがうまく機能しなくなった、という相談事にのっていた時、自分の疑問点とそのグループの破綻の事実がシンクロしていることにふと、気がついたのは。

 その障害者のグループでは、最初はみんな等分に週二回のボランティアをこなしていたのに、そのうちに忙しい人とそうでない人の格差が出来てきて、週三回くる人や、週一回しか来ない人が出来てきたと言うのです。みんな家庭や仕事の合間を縫ってやっているわけで、当たり前といえば当たり前なのですが、そうなってくるとどうも、最初は仲良く気持ちもまとまっていたように思えたグループだったのに、グループ内に格差のようなものが感じられるようになって、うまく行かなくなったしまったというわけです。良くある話です。「うーん、でもねぇ。それでもみんなボランティアする気持ちは一緒なんだから。。。」とその人に言いかけて、自分でもはっとしました。

 そうです。週三回くる人も、都合で週一回しか来れない人も、別にそのボランティアにかける熱意に差があるわけではないのです。仕事が忙しいこともあるでしょう。身内のことでばたばたすることだってある。みんなそれぞれの生活を持っているのですから。それでも、ひとたびグループとして活動し始めると、その「週一回」と「週三回」の差が、そのまま熱意の差として測られるような気がしてしまう。それがみなの気持ちを分け隔てているものなのだとしたら。。。

 同時にふと、急に思い出されたことがありました。それは去年、会計のOさんから出された団員宛の通告の一文でした。皆さん覚えておられるでしょうか?それはこんな文章でした。

 会計係からのお知らせ

 アンサンブル・フロイントの団費は月2000円です。専用の団費袋に入れてOまでお願いします。

 団費袋はおおむね月末(遅れることもあります。すみません)にみなさまにお渡ししています。会計係からはただお渡しするだけで、催促したりすることは一切ありません。みなさま個人のご都合で支払ってください。

 新入団される方については、初めて来られてから約1ヶ月は仮入団ということで団費は不要です。次の月から続けて来ていただけることになったら団費袋をお渡しします。 

 なお、「今月は一回も練習に参加できなかった」「3ヵ月も来られなかった」などなどの理由で団費が払えないこともあると思います。こうした場合、来られなかった月の団費を支払うかどうかも個人の意志にお任せしようと思います。全部支払っても、半額でも、来なかった月はなしでも、個人の都合に合わせて、ということでご了承いただきたいと思います。なお、どの月をどれだけ払うかは団費袋に明記しておいてください。だれがどんな風に支払っているかを公開することはありません。

 団員みんなが団を愛していることは同じだと思います。来れなかった月に関しては個々人の都合、経済状態に合わせてということで、よろしくお願いいたします。

会計係:O

 この文章を読んだときの何とも言えない衝撃のことを、僕は今になって急に思い出しました。それはもしかすると、自分の中の矛盾を突かれたことへの驚きだったのかもしれません。今になって改めて思うのですが、ここには凄いことが書いてありますね。それも本当に凄いことです。だっていいですか、良く考えてみてください。アマチュアのオーケストラには収入手段がありません。お金がなければ練習場も借りれないし、活動そのものが出来ません。だからその運営資金を「団費」として、団員一人一人から調達するのは、オーケストラにとって存続の基盤にかかわるような、きわめて根本的な重要事項なのです。団費を払うということが、とりもなおさず「団員になる」という事でもあります。僕の考えるところの「団員の等しさの意識」からいっても、ここは等分にその義務を負うべきで、例外を設けるべきではありません。「俺は払っているのに、あいつはその義務を負っていない」と思ったら、気持ちもうまくまとまらないでしょう。だからみんながきっちりそうしたものを負担することが「熱意」を等しく顕すことではないのでしょうか?

 ところが、違うというのです。そうじゃない、と彼女はいうんですよ。お金を払っても、払わなくても「団員みんなが団を愛していることは同じだと思います」と、Oさんはここで宣言しているのです。会計係自らが、ですよ?どう思われますか、皆さん?

 ここまでのことが頭の中でかっちりと繋がったとき、僕は何だか目が覚めたような心持がしました。ああ、そうだったのか、と叫びたいような心持でした。結局、僕の言う「団員の等しさの意識」を達成するのは、実に簡単なことだったのですよ。

「みんながそれぞれのやり方で団を愛している、ということを認める」

 そう、これだけで良かったんですよ。それは、みんなを叱咤激励してやる気にさせることでもないし、みんなに幹部のような権限を分け与えて「遣り甲斐」を感じさせることでもなかった。もちろんみんなに選挙権を与えて「民主的」な運営をすることでもなかったし、みんなに義務を課すことでもなかった。ああ、出席を採るオーケストラ、というのを今思い出しました。出欠を取るんだそうなんですよ、毎回の練習の。で、一定以上の割合に達しない者は、演奏会に出さないそうなんです。そのやり方の非人間性(と、私は感じたのですが)のありかが一体どこなのか、今はっきりとわかりました。三回練習に出てきた人は、一回しか来なかった人より、団を愛しているはずだ、というおぞましい決め付けがその背後に透けて見えるからだったんですよ。そうか、そういうことだったんだ。それが団員の間に隔てを作り、一体感を妨げるものの正体だったんです。きちんと団費を払っている人は、払っていない人より団を愛している。幹部になって団の仕事をしている人は、していない人より団を愛している。毎回練習に早くくる人は、遅くくる人より団を愛している。ちょっと考えてみれば、そんな馬鹿げたことがあるわけがない。どうしてこんなことに気づけなかったのだろうか。ぼくは本当に馬鹿だ。

 僕はふと、先日のレコーディングの時にみた、Tさんの久しぶりの表情を思い出しました。長いこと来なかったことを気にしてか、何だか済まなそうな表情でした。でも、来てくれました。僕も久しぶりに顔を見て嬉しかった。長いこと練習にも来れなかったし、練習もきっと出来ていなかったでしょう。実際ほとんど参加しているだけ、と言う吹きっぷりでしたよ。でも。。。僕はそれが、ちっとも嫌ではなかった。昔市民オーケストラにいた頃、あんなに「トラ」が嫌だったのというのに。

 大学時代の大友団長の施政方針は「来る物は拒まず、去るものは追わず」でした。今だって変わらないでしょう。僕はその「おおらかさ」とでもいうようなものが、人間としての集団であるフロイントに必要なものだ、というところまでは、半ば「本能的」にわかっていましたが、そのことの持つもう少し深い意味までは見通せていませんでした。

 一見単純明快に見える(実際にはいうはたやすく、行うは難し、なんですが)その方針は、ただ単に団の出入り口でのことを指し示しているだけではありませんでした。それはつまり「共に音楽をしたい」という自発的な意思を持って団を訪れさえすれば、ただその一事のみで彼/彼女は「団員」として招じ入れられる価値がある、という事を意味していたわけなのです。練習に参加したのがたとえ一回きりであったとしても、それは一向に構わない。だって、フロイントでは一回一回のトゥッテイこそが「本番」なんだから。その一回のトゥッティを共に楽しんだのなら、なんでその彼/彼女がフロイントの「団員」でないはずがあるでしょうか?それでいいんです。そのことが認められさえすれば、つまり、音楽を求めてフロイントを訪れた者であれば、その「音楽を求める心」に価値の差などないということを認めさえすれば、全ての団員は小西収の指揮棒の前に完全に平等な存在になる。何の分け隔てもなく、音楽で一つになればいい。オーケストラの団長に求められるもの、それはつまり、いろんな表面的なことにとらわれ過ぎずに、団員一人一人の持つ音楽への「熱意」のようなものの価値を認めて、団に一人一人が平等に参加しているのだという「実感」のようなものを作り出すことなのではないでしょうか。

 そしてそれはもう、フロイントにおいて実現していることでもあるのです。ええ、ええ、白状します。こんな簡単なことにさえ僕は気がついていませんでした。ずっと心の中でわだかまりがあったんです。でも、なんだか本当にすっきりしました。僕が間抜けにも気がつかないでいる間に、このようなことが何時の間にかフロイントでは達成されてしまっていたとは。。。何と言う嬉しいことなのでしょうか。嬉しいついでに口を滑らせてしまうと、そもそもの最初、僕が大友さんに感じていた「期待」というのは、実はこうしたことの実現だったのではないか。それが自分には欠けており、大友さんにある、ということを感じていた自分がいたからこその「期待」だったのではないだろうか。。。と思ったりするのは、ただの自惚れですね。ハイ、すみません。

 もしかすると僕は、フロイントの皆さんに言わずもがなの自明なことを、独り善がりに興奮してしゃべってしまったのかもしれません。申し訳ありません。自分のもやもやにけりがついたのがあまりに嬉しかったのです。勘弁してやってください。ああ、そして西内さん。今ここではっきりお答えしておかねばなりません。フロイントに「見学者」や、より一歩踏み込んだ「ゲスト」の方々が来られ、自然に演奏していかれることがとても多いということは、フロイントの大いなるPRポイントですとも。ええ、間違いありません。大いに誇りにして、大いに宣伝してやってくださって結構ですよ。ハイ。

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