● 音楽とは抽象である。
例えば「エロイカ」の第2楽章について、「行進曲なのだから歩けないような遅いテンポは間違い」であるとして、フルトヴェングラーなど旧時代の巨匠たちの演奏を批判する論をしばしば耳にする。しかし音楽を演奏する際にそういう具体性を持ち込むと、間違いなく作品(演奏表現)の内容は縮減してしまう。巨匠たちは行進曲と記されていることを知らなかったはずはなく、それでも引きずるように演奏した。それはなぜかと考えねばならない。造型の発露となるキーワードを設けるなというのではないが、設けるとすればこの場合はどう考えても「行進」ではなく「葬送」の方だろうし、それでもやはり演奏の本質は、「葬送」の描写などという具体性に向かうのではなく、「葬送行進」という具体的行為から「葬送」さらには「葬」へと至る、一つの抽象を与えることにある。哲学者ならば思考を紡ぐ過程を経て言語によって与えるだろう「具体物/具体的行為の抽象化」を、作曲家と演奏者は音楽によって与えるのである。
● 楽譜とはテクストである。
文章(文学作品、評論、他あらゆる類の文章)とは、書き言葉、書かれた言語である。その典型的な存在の仕方の一つは、白紙に活字を並べて綴じた「テクスト=書物(本)」という存在の仕方である。もっとも、活字の羅列は白地に黒インクの模様が塗り込められたものに過ぎず、それが言語として認識され=読まれることで初めて、文章が文章と成りえる、とも言える。その意味では「テクスト=書物(本)は、文章の《存在以前の状態》の典型である」と言い換えてもよいかもしれない。
同様に、音楽(音楽作品)の典型的な存在の仕方の一つは、白紙に記号を並べて綴じた「楽譜=スコア」という存在の仕方である。それが音楽として認識され=読まれることで初めて音楽と成りえ、その意味では「楽譜=スコアは、音楽の《存在以前の状態》の典型である」と言い換え得るだろう。そこまでも含めての類似・並行が成り立つ。
テーゼが示すのは、「音楽作品にとっての楽譜」とは「文学作品にとってのテクスト」に喩え得る、ということである(→注1)。
ところが、楽譜の中に言語(→注3)が書かれることがしばしばある。ここから、音楽演奏についての壮大な誤解が始まってしまう。「Allegroとあればいわゆる《Allegroの速さ》で演奏する」とか、「cresc.とあればだんだん大きくする」とか、そういう読み取りばかりについ躍起になり、楽譜の中での副次的な要素であるはずのそれらの言語群を、演奏表現における《正しさ》の拠り所へと祭り上げてしまうのである。だが、本来、楽譜における言語とは、いわば文章における注記に過ぎない。確かに、一作家の全集などに付けられる優れた注解は、その作家の作品の読解において大きな助けとなろう。しかし、それはあくまで「注」であって「本文」ではない。
あるいは、楽譜のテクストには、スタッカートやアクセント、スラー、(松葉記号の)クレッシェンド/ディミヌエンドなどのいわゆる表情記号というものも、添えられる。しかしこれらも「本文」ではありえない。また、これらの記号だけが独立に楽譜に書き置かれることなど、通常は考えられない。言語群が注記であるとすれば、これらの表情記号は、いわばルビに相当しよう。
もちろん、一つの書物の全体には本文だけでなく注やルビも含まれており、それらがときに欠かせない役割を果たす。そうでなければそれらが書き置かれる意味がなくなってしまう。しかし、繰り返すが、それらはテクストの「本文」ではない。では、音楽のテクストである楽譜にとって、「本文」とは何か。この答はあまりにも易し過ぎて、わざわざ記すのも気恥ずかしいほどである。《五線上の音符の並び》、これが楽譜のテクストの「本文」である。
したがって、「楽譜を読む」とは、まず何より、その「本文」である《音符の並び》を読み込むことである。それが指揮者・演奏家の本分である。それを、注意書きやフリガナにばかり気をとられ、肝心の本文の読解がおろそかになってしまっては本末転倒である。そして、これも当然過ぎることだが、本文を自分でしっかり読み解くことの方が、フリガナを読むことよりも、はるかに多くの知性を要する難しい作業に違いない。注を理解することとて、作品自体を読む作業とは異なる。そもそも、注とは、《作品について他人が理解した跡》なのであり、大いに参照すべきではあれ、自分で本文に当たっていくこととは作業の質と次元が異なるということを自覚しておく必要がある。今、他人と書いた。多くの文学全集とは異なり、楽譜の言語は作曲者自身が書いたものであり、作者が自前で残した注解を特に尊ぶという姿勢は、まさか間違いではない。が、作曲者とて演奏する「私」にとっては他人である。ときには作者をも脇に置き、作品そのもののテクスト=楽譜を自分で読むこと──それが、読譜の基本である。
f=フォルテやp=ピアノなどの単発の強弱記号については、事情が少し異なる。これらはさしずめ章や節の見出しや段落分けに当たることが多く(→注3)、注やフリガナに比べ、本文とより密接に関わり、より重要な位置を占めるであろう。
しかし、注もフリガナも、さらに見出しや段落分けさえも、それらがなくとも文章はまだ文章として成り立ちえる。それらよりもなくてはならないものは、句読点である。平安文学の原典には句読点が打たれていないと聞く。しかしそれは句読点が「無い」のではなく、「句読的な区切りは確かにあるが、書かれていない」だけであることは明白だ。楽譜のテクストも平安文学の原典と同じく、一般に句読点は打たれていない。楽譜が文章と異なるのは、句読点(句読的区切り)の位置も読譜側=指揮者・演奏家に多く委ねられている点であろう。しかし、句読点を打たなければ(句読的区切りを理解しなければ)その文章が何を言いたいか、もはや判別できなくなる。先に「壮大な誤解」「注やフリガナを読むことばかりに躍起になる」と書いた真意について、お分かり頂けたかと思う。これはアレグロだ、これは行進曲(→注4)だ、クレッシェンドだ、リタルダンドだ、と細かく「その通り」にはしているだろう演奏が、ときに惹き付ける何ものも無くただただ退屈の極みということがあるとすれば、それは楽譜のテクストの句読法に意識が及んでいないからであろう。「わがは、いはね、こであるな、まえはま、だな、い」といった漱石の朗読?に相当するベートーヴェンやモーツァルトの演奏が、どうしようもなくつまらなく、どんな演奏であったか少しも記憶に留まらないのも、まことに無理からぬことである。「我が輩は猫である。名前はまだ無い」と読めば、多少早口だろうがゆっくりだろうが、途中少し詰まろうが、内容は伝わるのである(→注5)。そして、後はまさに、読譜側=指揮者・演奏家が作品を「どう読むか」にかかっている。多様な「読み」の可能性に開かれていることは、優れたテクストが持つ特徴の一つであろう。バッハ然り、ベートーヴェン然り。
注1:ここでは“音楽作品─文学作品”という語呂を合わせたに過ぎない。楽譜は、何も「文学作品」に限らず、広く文章に喩えられる。それが本テーゼの主旨である。
注2:ここでいう「言語」とは、普通の言語、すなわち、多くはイタリア語の語彙による音楽用語を主とする「指示」のことである。すなわち、テンポおよびその変化、強弱およびその変化などについて添えられる、あの「説明書き」のことである。
注3:前期ロマン派くらいまでは、ほとんどこの意味で用いられるのではないか。チャイコフスキー辺りになると、局所的な、漸強弱のスタートやゴールを示すものも見受けられるようだ(「悲愴」に現れる有名なppppppなど)。そうなればそれらは“注レベル”ということになろう。
注4:テーゼ(1)「音楽は抽象である。」 参照。
注5:ここで「読む」ことへの喩えが「読解」から「朗読・音読」へとつい移ってしまった。「文章→読解→朗読」─「楽譜→読譜→演奏」というメタファーも成り立ちえるが、本章のテーマはあくまで「読譜=読解」の重要性である。
● 音符とは言葉である。(テーゼのみ)
● 音楽作品は、量子的に振る舞う多様体である。
演奏表現とは、音楽作品がそれによって初めて一つの姿に象られて現れ出るような、一つの行為・形態である。音楽作品は、別の演奏表現によっては別の姿に象られて現れる。互いにときに著しく相違する演奏表現のそれぞれのどれもが、作品の真実の姿となりうる。
多様体の語はもちろん数学から拝借した。その本家の多様体とは何か。ここではもちろん、数学における厳密な定義を述べることが目的なのではない。多様体というのは、数学の概念の中では比較的イメージしやすいものである。
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多様体とは平面や曲面を一般次元に拡張した概念だと述べた.局所座標系という言葉を使ってもう少し正確に述べると,多様体とは,どこでも好きな所に局所座標系が描けるような空間である.
───(松本幸夫 『多様体の基礎』 東京大学出版会、1988年、3頁)
ボールやドーナツの表面は、なめらかにつながっている。なめらかにつながっているとは数学的には「連続かつ微分可能」であり、微分幾何学という数学の対象になり得る。この意味で、ボールやドーナツ(の表面)は、2次元多様体の例である。
さらに数学の別の分野である代数学では、「群の表現」というのがある。この「表現」を「演奏表現」の「表現」になぞらえ、「言の葉と音の符 楽の譜は文の森 (8)」の「音楽作品という多様体の表現論」というタイトルが生まれた。数学の専門家には、幾何学の「多様体」と代数学の「表現論」とをつなげて、何をでたらめ言うか、と笑われるところであろう。加えて、テーゼには「量子的」という言葉も用いた(このメタファーの説明には、朝永振一郎の「光子の裁判」という文章がうってつけなのであるが、それの載った文献があいにく今手もとに見当たらない)。電子などのミクロな粒子については、それ自身に“気づかれずに観測する”ことができない。観測行為がその運動と無関係ではありえないのである。
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位置が確定した状態あるいは運動量が確定した状態はありうるが,両者が同時に確定した値をもつことはできないのである。これを不確定性原理(uncertainty principle)と呼ぶ.歴史的には,量子力学の定式化が一応おわった段階で,ハイゼンベルグがいくつかの思考実験にもとづいて確立したものである.
───(中嶋貞雄 『量子力学I 原子と量子』 岩波書店、1983年、183頁)
一つの音楽作品は、確かに一つの固有の存在としてあるが、その姿は一つの演奏によって表現されなければ現れ得ない。そして、音楽作品はあくまで一つの作品としての唯一性を留めながら、同時に、それの表現は自由な可能性に開かれており、無限に多様な不確定性を持つのである。
以上のように、本テーゼは、音楽作品と演奏表現についてのメタファーを、「微分幾何学」と「群の表現論」と「量子力学」の“3色そぼろ丼”にして盛りつけてみたものである。
「みんな違ってみんないい」「それぞれに個性的ですばらしい」などと言ってみせるだけでは、演奏表現の多様性の本質には迫り得ないと考える。違っているそのみんながみんな「いい」とは限らず、しかし、唯一つに決まるわけでもない。このように、音楽と演奏の世界とは、マクロにもミクロにも一筋縄では行かない複雑広大深遠な世界である。そのことを、小難しい隠喩をあえて用いて述べることによって確認してみたかったのである。
● 原曲とは微分方程式の特殊解の一つであり、編曲とは別の特殊解を求めることである。
一つの音楽作品を編曲の対象としてみるとき、それには、微分方程式の一般解に相当するような、“原曲以前”の原初的側面がある。
原曲とは、その微分方程式の特殊解の一つである。
編曲とは、原曲とは別の特殊解へ至らんとする道である。
以下は、アンサンブル・フロイント第3回演奏会(2001年1月)のパンフレットに掲載された演奏曲目解説の抜粋である。ただし、ここでの掲載になじむよう、仮名遣い・句読点・段落分けなどにいくぶん修正を施した。
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バッハ:シャコンヌ
〜無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ロ短調BWV.1004より〜管弦楽編曲版
ヴィルヘルム・フルトヴェングラーは、自分のことを指揮者ではなくあくまで作曲家であると自覚していたという。なぞらえて言えば、自分で言うのも何だが他に誰も言ってくれないので言うと、指揮者小西収よりも編曲家小西収の方がまだしも優れている(イケている)のではないかと思うことがある。最近は“21世紀バッハ編曲家”と自称することもしばしばある。これまでにも「小フーガト短調BWV.578」(1994)、「トッカータとフーガ ニ短調 BWV.565」(1997)、「チェンバロ協奏曲ニ短調BWV.1052第1楽章」(1999)の吹奏楽への編曲を完成し、前2者はすでに1、2度演奏してもいる。といっても私はバッハ音楽のスペシャリストでは全くなく、作品もいわゆる有名曲しか知らない。そんな私がバッハ音楽への編曲へと指向するのは、ひとえにバッハの音楽における並外れた器の大きさに魅せられたからに他ならない。ベートーヴェンの音楽も、多様な演奏表現の可能性という点では器が大きいが、バッハの場合はそれに加えて特に編曲への受容度が極めて高い(ベートーヴェンはそうは行かない)と考える。実際、バッハの多くの作品が古今の指揮者や音楽家によって様々な編曲を受けてきた。「G線上のアリア」、映画『ファンタジア』の「トッカータとフーガ」、マイラ・ヘスによるピアノ版「主よ人の望みの喜びよ」など、バッハの作品はこれらの編曲によってポピュラーになってきたといってもよいだろう。
「シャコンヌ」の管弦楽への編曲は、すでにいくつもある。そのうち私がまず接したのは、斎藤秀雄版であった。斉藤版を聴いて感銘を受けながらも、編曲楽譜について「私ならこうしたい」という部分があり、それらについての発想が湧いたことがこの編曲のきっかけである。斉藤版が(おそらく)実質はブゾーニのピアノ版からの編曲すなわち“編曲の編曲”であることも少々不満であった。やはり私は、原曲のヴァイオリン譜=バッハの残したテクストから自分が直接読み取ったことをオーケストラ音楽にしたかった。着手は1998年、2、3か月をかけ、7月に大枠を完成した。ごく一部の和声などで、ブゾーニをはじめ先人たちの成果に頼ったところもあるけれども、アンサンブルフロイントとの試奏(練習)を重ね細かな加筆修正を経て、何とか「小西収編」と称せるものが形になり、本日晴れて初演を迎える。
お断りしておくが、本日演奏するこの「シャコンヌ」は、決して「オーケストレーションの妙を披露する」という類のものではない。もとより、その技法は自分でも呆れるほど拙いことをここに白状しておきたい。それでも下手なりの工夫というのが散在することは確かで、そうした技法は、拙い分だけ、かえって鑑賞者に伝わりやすいかもしれない。中でも「アルペジオの和声化」と「旋律の文節化」は本編曲に特徴的なことであろう。
「アルペジオの和声化」とは
・アルペジオ的旋律において、楽器を複数割り当てて一音一音を残して奏することによって、旋律の後半でその旋律が従う和音を響かせる
というものである。すなわち例えば「トッカータとフーガ」の冒頭(の主題反復の後)は通常、減7和音が下から上へ徐々に積み重なっていくように奏されるが、あれを旋律部分でも行おう、ということである。バッハのオルガンやヴァイオリンの独奏曲では、アルペジオ的旋律(そこの和声に乗る音のみから成る旋律)が多く現れる。オーケストラで演奏する際、このような部分を和声的に聞かせない手はない、と私は考え、この方法を多用している。
「旋律の分節化」とは
・長いフレーズの走句的旋律を短く断片的な部分に分け、それを複数の楽器群に1部分ずつ振り分けて、相応の効果を期待する
といものである。この逆説的手法によって、オーケストラのあちこちのパートからモグラ叩きのモグラのように音が飛び込んでくる立体感の表出や、旋律の音域を部分的にオクターブ単位で変位させ各楽器の音域特性を活かしつつ旋律を再構成することで、まるでバラバラの糸で編み物が編まれるような聴感をねらった。
… と、このように書くと、けっきょく「妙を披露」したいのか、と誤解されそうだが、それは違う。これらはいらば“素人編曲の稚気”であり、それを微笑とともに楽しんで頂けるように紹介したまでである。が、技法的なことより大事な内容的なこと=本当に伝えたいことは、ここに拙文を書くよりも、指揮者として、演奏自体によって表現し伝えたいと考えている。ただ、今回の編曲の作業の過程で、例えば楽器の扱いによる音色変化などの技法上の選択が、自ら表現したい内容上の問題と実は深く有機的につながっていることを、当然ではあれ改めて学んだことも確かである。
私にとって編曲とは、原曲のスコア=テクストに対する自分自身の読解を具現化する手段の一つである。そのような私にとってバッハの作品は、まさに“編曲の泉”であるのだ。今回の「シャコンヌ」においても、先述の吹奏楽編の3曲と比較すればずいぶんおとなしいが、それでも、第31変奏における新動機、第46変奏以降におけるファンファーレ的新動機、そして最終変奏(終結)における展開…と、批判の矢面に立たされそうな部分・場面は少なくない。しかし、原曲の「シャコンヌ」の音楽が持つ普遍的な内容を、微分方程式における「一般解」にたとえるならば、今日の「シャコンヌ」は、いわば微分方程式の一つの「特殊解」の提示のつもりである。少なくとも、けっして、個性のみを安直にキーワードに据えた自己満足的「特異解」を目指しているのではない。指揮者・音楽評論家の宇野功芳は「作品のいのちは、演奏家の主観を通してしか出てこない」(宇野功芳『名演奏のクラシック』 講談社、1990年、48頁)と述べている。私も、芸術表現とは「主観を通じて普遍に至らん」とする営為であると考えている。作品の普遍性は、奥深い「変数(関数群)」としてまずあり、それはつねに、表現者の主観という「初期値(初期条件)」を代入して与えることによって、またそうすることによってのみ、初めて具体化=再生され得るのだ。
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