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「旋律の造型学」微視的研究編(第2版)

第3章 アーティキュレーターの系譜 〜我が心の師ブルーノ・ワルター〜

 >> >>第1回:ワルターの付点リズム >>第2回:ワルターの装飾音符

  序 ● ● ● ● ● ● ●

 私の、表現者としての自覚を伴うクラシック入門は、17才の時に出会ったワルター指揮コロンビア交響楽団のLPレコードによってであった。ステレオスピーカーを前に、ベートーヴェン「第2」第1楽章終結の2本のトランペットの係留和音の胸のすくような吹奏にしびれ、マーラー「第1」終結の止まるようなテンポによる立派な造型に平伏した。 また、ブラームス「第1」終楽章の第1主題再現のチェロの歌を聴き、規模も技術も劣るコロンビアの方がベルリンフィルなどの威力ある一流よりも人を感動させる力を持つことがあるのを知った。その楽音からはそこが技術を要する箇所であることがはっきり「聞き取れた」−右手で弓を掻き、左手でポジションを確かめ、老ワルターとともに呼吸するチェロ奏者の姿を「聞き取れた」のだ。

 そして大学生となり、畏友・大友一三と出会い、フランス国立管弦楽団との「プラハ」、ニューヨークフィルとの「40 番」などを彼の下宿で聴き、今までこれらを知らずしてワルターファンと自称していたことを恥じた。また、朋友・白上朋(しらかみとも)を通じて「リンツ」「運命」等のリハーサル風景の記録LPを手に入れることができたのもこの頃だったと記憶している。管の奏者一人一人に姓で呼びかけ要求を伝えるワルター。 コンサートマスターとともにボウイングを模索するワルター。 80歳を越える高齢とはとても思えない高く美しい声。ワルターのポスターを一枚も持たない私にとって、リハーサル風景のレコードが、写真よりも彼の姿を忠実に伝えるポートレートとなった。

 CDが普及してからは、手に入るワルターの演奏を、定評のあるものはもちろん、音質の悪いライブ録音まで求め集め、傾倒していく。 映画『カーネギーホール』のビデオやレーザーディスク『フルトヴェングラーと巨匠たち』などで見るワルターの指揮姿の映像の前では、足を整えて座ったものであった。

 しかし、私も大人になるにつれて視野が広がり、ムラヴィンスキーやシューリヒトの「厳しさ」、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュの「楽音そのものの力」などを体験/理解するに至り、ワルターの演奏がしばしばそれらに及ばない「弱さ」を持つことを知る。

 それでも私はワルターが好きであった。 単純な判官びいきで言っているのではない。大石聡氏は、私のアンサンブルフロイントとの「40番」 やシューベルト「第5」を評して「やっぱり小西さんはワルターですね。」と言ったことがある。私自身としては同曲についてワルターとは異なる表現を多々行っている自覚もあるのだが、そう言われて、「先入観で見るな」と怒るなどとんでもない、「そう?でしょ?やっぱり?」と嬉しくなってしまう。 それにもちろん、大石氏も単なる先入観だけからそう感じたのはではないと思う。ワルターを心の師と仰いできたからそうなったのか、私の気質が生来ワルターのような音楽を指向するものであったのか、どちらにせよ私にとってブルーノ・ワルターは必然的存在である。例えば、没後30年の企画で初CD化された「モルダウ」のライブを、初めて聴くのに、かなりクセのある表現なのに、まるで自分が指揮しているように聴き進んで行ける、ということがあった。 聴く前から予想がつく、というのとも違って、演奏に接するその時その場でその都度ぴったりくるのだ。

 笑われるのを承知で書かせてもらうけれども「自分はひょっとしてワルターの生まれ変わりではないか」と直感することがある。 自分の中では、もはや「マネをする」とか「影響を受ける」という次元では済まない気がしてしまうのだ。もちろん私は、特定の信仰も持たないし、「神秘」よりも「科学」を採る人間であるが、そのような私が「生まれ変わり」などと言いたくなることを自分で愉しんでいる。 それほどワルターと彼の音楽を愛する。

 彼の演奏に接して私は、彼の人生、自分の人生に思いを馳せ、さらには、具言できない様々な情緒を走馬灯のように心の中に駆け巡らせる。 最も極端な場合、ブルーノ・ワルターの名を唱え、彼の姿や声・言葉やその演奏の一場面を思い浮かべただけで、じーんときてしまう。「『楽員は皆、先生を尊敬しているのではなく、先生を愛しています』と言われてはらはらと涙をこぼした」ワルターを思ってこちらが涙ぐんでしまうのだ。

 さて、次回からは「アーティキュレーターの系譜」の本論に移りたい。その(1)として、まずはブルーノ・ワルターを取り上げる。私がなぜワルターに魅かれるか、私はワルターの表現芸術の何を読み取るか、などの、特に本稿のテーマに沿う部分(かなり細かい話になるだろうが) について見ていきたい。

  第1回:ワルターの付点リズム ● ● ● ● ● ● ●

 ワルターの特徴の第1は付点音符のリズムの扱いであろう。 付点4分音符+8分音符のリズム(あるいはこれと相対的に同じリズム)の場合、ほとんど例外なく付点音符を少し長くとっている。

 このアーティキュレーティングが最高に結実した例は、ベートーヴェン「第4」第2楽章冒頭のリズムだろう。 特に、フォルテによるこのリズムの再提示の部分の躍動感・キッパリ感は他の演奏では決して味わえない。

 次いでは、ブラームス第4第1楽章第2主題提示のリズムである。 ここは、この曲の中で最も鮮烈な第1印象を与える箇所と言ってよいが、ワルターの鋭いリズムを一度耳にすると、正確な「4分の3+4分の1」になっている他のほとんどの演奏が当分野暮ったく感じられてしまう。 前章のグールド「月光」の項にも書いた“中毒症状”である。

 同じ“症状”を引き起こす演奏として、シューベルト「ザ・グレート」がある。 第1楽章主部は全編この“ワルターの付点リズム”で貫かれる。 聴感としては、ほとんど2付点のリズムのようだ。 ベートーヴェン「第4」同様、第2楽章のような緩徐な曲想でもこのリズムが逐行され、さらに第4楽章では冒頭からこの“ワルターの付点”が威力を発揮する。 「パン、パパー」という、この「、」(一瞬の「間」)が絶妙なのだ。

 他に、ベートーヴェン「第1」第1楽章では展開部でのフルートによる第1主題断片の吹奏が誠にチャーミングであり、シューベルト「第5」第1楽章などは言わずもがなであろう。

 さて、きりりと締まる直線的・鋭角的なこの“ワルターの付点リズム”は、言葉に尽きない魅力に満ちて様々な作品の演奏に現れるのだが、 あくまでそれは、純音楽美のための1つのミクロな表現手段として提示されている。 シューリヒトやムラヴィンスキーのように、音楽そのものがマクロに鋭角的な厳しさを備えているのとは異なる。 また、フルトヴェングラーやクナッパーツブッシュでは、マクロな音楽の生命が息づく中で、弾力のある楽音そのものがリズムという生きた細胞を自然と発生させることになるのだが、それに比べるとワルターのリズムは、 彼がオケとともに行った手段とその結果という意味以上のものは感じられない。 しかし、そうであるがゆえか、演奏家(ここではもちろん指揮者)の人間・人間性・人間味というものが、それ自身から鑑賞者に近よる形で伝わってくるのがワルターの演奏である。 他の偉大な指揮者の場合は、彼らのすばらしい演奏に魅了されるが、ワルターの場合は、すばらしい演奏をしているワルター自身の方に魅了される。 このように感じさせるのは、ワルターの他に、例えば朝比奈隆、ストコフスキー、バーンスタインらがそうだろうか。 逆に先の4人と似ているのは、 カザルス、トスカニーニ、クレンペラーらとなろうか。 ただ、ここでこのように言うのは、指揮者のタイプの安易な分類が目的なのではもちろんない。 あくまで程度の大小の違いを愉しみたいだけだ。

 “ワルターの付点リズム”の失敗例としては、チャイコフスキー「第5」(BBC響)が挙げられる。 いくら何でもこの曲の序奏の「付点4分音符+16分音符2個」(“運命の動機”と呼ばれる循環主題)でコレをやられてしまうと、ずっこける他ない。 少し脱線するが、このチャイコフスキー、まことに珍妙なることこの上ない。 “のけぞり5段階評価”の5がつき、シェルヘンの「第9」と双璧を成す。 今挙げた序奏の付点リズムを皮切りに、様々な「禁じ手」が繰り広げられており、第1楽章コーダに第1主題提示のときと同じタイがかかっている例などに驚かされる。 だが、圧巻は第4楽章主部のテンポだ。 ムラヴィンスキーの1.5倍は遅い。 第3主題直前のオスティナートでさらに遅くなる。 過激だなあ。 これを“大いなる誤解”と見る向きも多かろう。 さすがに私も、特に反論はできない。 が、いずれにしても、これがワルターによるチャイコフスキーの「テクスト理解」の結果なのであった。

  第2回:ワルターの装飾音符 ● ● ● ● ● ● ●

 ワルターの演奏を聴くと、ふと書かれた装飾音の扱いについてさえ、独自の明快な解答を用意しそれを実行しているのが分かる。

 ハイドン「V字」の第4楽章では「前打音+8分音符+8分音符」の全く同じ音型が2回連続する動機が出てくる。 この3つの音符の前2つにはもちろんスラーが掛けられているのだが、通常は2個の8分音符は短く切られ「タラッタッ、タラッタッ」と演奏するところ、ワルターは3つともスラーでつなげる。 結果、真ん中の音符は長くなって後につながり「ティアーラ、ティアーラ」となる。 と、今、こうしてあらためて仮名表記を比べると、やっぱりワルターの方が芸術的センス満点だ。

 ベートーヴェン「第7」リハーサルにおいてワルターは「この時期のベートーヴェンの前打音は拍の前に出します」といい、第1・第2楽 章とも特徴的だ。 特に第2楽章については宇野功芳が「軽くなって格調が下がる」と評しているが、私はむしろ「タリラーララ」の前の「タリ」と後の「ララ」を等価に16分音符として扱うやり方がどうにも野暮ったく聞こえる。 拍の前か上かはともかく、装飾音の方は短くして 「ティァラーリア」としたい。

 もう一つ、モーツァルト「25番」の第1楽章第2主題において、魅力的で興味を誘う例が残っている。 通常この旋律は「装飾音符+4分音 符+8分音符2個」の動機が3つと「8分音符4個」の動機が1つとで成っているように演奏される。 だがベーレンライター版の記譜は、pで奏される1回めについては4つの動機とも「装飾音符+4分音符+8分音符2個」なのだ。 ワルターはコロンビア交響楽団との1954年のスタジオ録音でこれをこの記譜のとおりに演奏している。 ウィーンフィルおよびニューヨークフィルとの実演録音(いずれも1956年)での「25番」では通常どおりであの例がレヴァイン盤で、問題の装飾音符を8分音符と等価にしてしまっている。 つまり第2主題は8分音符ばかり60個(f による確保も含めると120個)が並ぶことになる。 それにしても「タラタタタラタタ…」はないだろうに。 「この方が美しい」と考えてやっているのであればセンスを疑うし、装飾音符の演奏史的検証から「これが正しい」とアピールしたいのであれば「それでどうした」「正しければ満足か」と言いたい。

 よく似た主張に「古楽器で演奏しない古典音楽はそれだけでウソだ」というのがある。 ではただその1点だけに寄りかかった古楽器演奏を天国の作曲家たちが喜ぶという自信があるのだろうか。 天国で、モーツァルトはワルターの演奏を聴いて「ヤッホー!そうするのもグーだよ」 と冷やかしつつ楽しむだろうし、ベートーヴェンは朝比奈の演奏を聴いて「楽器の性能が、20世紀になってやっとワシの考えに追いついたようだ。 金管の倍音やティンパニもそんなに音を増やせると知っていたらそのつもりで書いておけばよかったのう…」と言って喜び、悔やんでいることだろう。 私はひとまず素直にそう想像する。 ただ、これらのことは確かにもう少し深い問題を含むので、別の機会にまた述べたい。

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